小野朋江さん

構成:徳橋功
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Tomoe Ono
留学生就職支援会社 代表

私たちMy Eyes Tokyo(以下MET)がリアルに出会った素敵な”コスモポリタン”をリアルにご紹介するトークイベント「」。第9回目のゲストは、日本の大学や専門学校で学んでいる留学生の就職支援に取り組む、ASIA Link代表の小野朋江さんです。

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小野さんが起業したのは、今から約3年前の2011年10月。実は私たちMETと小野さんの出会いは、その頃までさかのぼります。METが開催した、マイクを掴んで何でも自由に話してね!がコンセプトのイベント”Open Mic Night”の第1回目に偶然ご参加いただいていたのが、起業直後の小野さんでした。

その当時、小野さんはすでに4人のお子さんを持つママでした。「え!信じられない!」とおっしゃる方も多いでしょう。ましてお子さんをお持ちのお母様方なら・・・でも、小野さんは言います。

「ママだからこそ、起業したのです」

かつて私たちが企画・制作していたラジオ番組に、小野さんをお招きしたのが2011年のクリスマス。MET代表である徳橋功が”男性目線”で小野さんの起業の経緯についてお聞きしました。それから約3年を経て再会したこの日は、METのワーキングマザー・山崎千佳によるインタビュー。いわゆる”ママトーク”となった今回のMET Peopleでは、これまで徳橋が全く耳にしてこなかったことばかりが飛び出してきました。

今回のインタビューのみをお読みいただくも良し、またそれに加えて過去のラジオインタビュー(*それぞれクリックしてお聴きになれます→Part1 Part2)をお聴きいただくのも良し。「ママだからこそ、起業した」という小野さんの言葉の真意を、きっとお分かりいただけると思います。またお母様方だけでなく、これからの道について迷っている方々にも、是非お読みいただければ幸いです。

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*インタビュー:山崎千佳
*会場:フロマエcafe & ギャラリー(荒川区西日暮里)2014年7月12日
*撮影:土渕正則
*協賛:セレナイト(詳しくはこちらをご覧下さい)

 

海外で”赤ちゃん”になる

今でこそ、私は日本で学ぶ留学生の就職支援をしていますが、元々の仕事は音楽関係でした。国立音大で音楽学を専攻し、卒業後は楽譜制作の事務所に入社。そこで私は「赤とんぼ」などで有名な山田耕筰の手書きの楽譜から楽譜の版下を作る仕事をしていたのです。すでに亡くなっている作曲家の自筆譜や筆写譜から、印刷用の版下を作るには、専門的な知識が必要になります。この仕事を”校訂”というのですが、私はそれをやっていました。

当時の私には外国人は全く視界に入って来ませんでした。仕事が本当に楽しく、1人目の子どもを産んで産休に入る時も、またこの仕事に戻るつもりでいました。

そこへ、急に外国行きの話が飛び込んで来ました。夫がフィンランドに転勤することになったのです。夫と私、そして当時1歳半だった長男でフィンランドに赴きました。

フィンランド語って、どういう言葉かご存知ですか?実は英語とも周辺諸国の言葉とも全く違う言語です。だから何が書いてあるのか想像すらできませんでした。若い人は英語が通じますが、私があまり英語が流暢ではないこともあって、早々に言葉の壁にぶつかりました。

例えばスーパーでは、フィンランドのお店は量り売りが基本で、品物の名前が書いてあるボタンを押して品物の重さを量ると値段が表示されるというシステムでした。だからフィンランド語が分からないと、野菜も果物も買えないのです。

私は日本ではいわゆる”公園デビュー”はしたことがなかったんですけど、フィンランドで少しやってみました。案の定、周りのお母さん方が話していることが全く分からない。こちらを見て話している人がいると、自分の悪口を言われているような気さえしました。彼女たちから私のことを気にかけて話しかけてくれるなどということはありません。私は言葉が全く話せないし、理解も出来ない。すでに子どもを持つ年齢になっていたのに、何だか自分が赤ちゃんになったような気がしました。

何もかももどかしくて、孤独で、初めの頃はよく涙が出ました。情報弱者と言うものはこういうものなんだ・・・そう痛感させられました。
人生で初めて「」になった瞬間でした。

 

言葉の力

私は意を決して、生活のためにフィンランド語の勉強を始めました。ヘルシンキ大学がフィンランド語講座を開いていることを知り、申し込みました。

そこは”フィンランド語でフィンランド語を教える”というところでした。「そんなの有り得ない!」と思いました。でもいざ受講してみると、それがベストの方法だったのです。そして、言葉が分かれば分かるほど、生活がしやすくなりました。言葉の力や偉大さを、体で感じた瞬間でした。

やがて1年間のフィンランド生活が終わり、日本帰国。この頃になると、かつて抱いていた楽譜制作への情熱は徐々に薄れていました。その代わりに、私の中に新たな情熱が生まれました。

私のフィンランドでの生活を変えてくれた、フィンランド語の先生の顔が浮かびました。そして思いました。

この日本にも、かつての私のように言葉の面で壁にぶつかっている人が大勢いるかもしれない。私が言葉を覚えることで、現地での生活が劇的に改善したように、日本にいる外国人が言葉を覚えることで、日本での生活が楽しいものになるかもしれない・・・

「日本語教師になろう」

そう心に決めました。

日本語教師は、いわゆる”国語の先生”とは違い、”外国語”として日本語を教える人のこと。私は資格試験に通るための勉強を、育児をしながら行いました。フィンランドから戻って間もなく生まれた2番目の息子の世話に追われながら、空いた時間で勉強しました。

 

流産の危機

私にとっては、日本語教師の資格を取るまでの10ヶ月間が一番辛かった。勉強が辛かったのではありません。世の中から隔絶された場所で、自分で何も生み出すことなく勉強している。本当に日本語教師の職に就ける保障もないのに。それがたまらなく辛かったのです。

暗黒の日々をくぐり抜け、私は晴れて日本語教師になりました。日本語教師の仕事は、本当に楽しかった。だから3番目の子どもが生まれる際に産休を取った時、私はすぐに現場に戻りたいと思い、産後3ヶ月で現場に戻りました。絶対にこの職を失いたくないと思いました。

そして4人目の子ども – いえ、これは予定していなかったのですが(笑) –  彼が生まれようとした時に、大出血が起きました。でも当時の私は、休みもそこそこにまた仕事に復帰しました。留学生たちと接するこの仕事が大好きだったし、留学生たちのことも大好きだったからです。そして何より、日本語教師になる前の「何者でもない自分」に戻りたくなかった。しかしある日の仕事帰り、電車の中で再び大出血・・・病院で診てもらったら、もう少しで流産、しかも前置胎盤という事態になっていました。

「生まれて来る子どもが”今は休め”と言っているのだろう」
そう思い、私は年度途中で学校を一旦辞めることにしました。

 

自力で歩み始める

無事に4人目が生まれた後、学校には私の席は残されていませんでした。 求人を見つけては連絡を取り、先方から「席が空いたらご連絡します」と言われました。その言葉を信じて来る日も来る日も電話を待ち続けました。でも電話はありませんでした。

私は、あの頃の”何者でもない自分”には戻りたくなかった。だから、自分で仕事を作れないか?と考えました。

かつてフィンランドで私自身が経験した”情報弱者”。日本の国際結婚でよくあるのが、日本人男性と外国人女性で奥さんが孤立してしまうことだそうです。ご主人は自分のホームで日本人の友人がいる、でも奥さんはいない。もし双方が外国人だった場合は、お互いに一緒に頑張っていこうという連帯感が生まれるから、かえって大丈夫なのだとか。

そこで思い出したのが、フィンランドでの外国人ママとの交流でした。あのような場所を、地元にも作れないだろうか?私の地元である東京都小平市にも、外国人ママがいるのではないか。その人たちとの交流の場を作ろうと考えました。

そのアイデアに、ある韓国人ママが乗ってくれました。そうして立ち上げたのが”多文化共生ネットワークたま”です。

そこでの活動を通じて、ママたちの才能に気づきました。日本語が流暢な外国人なら、通訳ができるのではないか?そしてこのママネットワークを生かして、通訳派遣業のようなものが出来るのではないか?そんなことを考え始めました。

 

そして、

自分で仕事を作り出そうという意識が芽生えていた矢先、タイミング良く地元で起業セミナーが開催されました。そこでメンターから起業のノウハウを学び、専門家にも相談に行きました。私の経歴や、日本語教師時代の留学生たちへの思いを話したら「留学生に日本での就職をあっせんする仕事を始めてみてはどうだろう?」と提案していただきました。

私が日本語教師だった頃、日本での就職が叶わずに帰国する優秀な留学生を何人も見てきました。そんな彼らをサポートできるなら・・・私は事業計画書を作り、メンターに何度も何度も見ていただき、アドバイスをいただきながらブラッシュアップしました。そして私は、内閣府が企画し東京都三鷹市が受託・運営したビジネスコンテストに応募し、入賞しました。

その喜びもひとしお、いよいよ起業支援金をいただくための手続きが始まりました。紙の上に描いていただけのことが、いよいよ現実になる。三鷹市からは「この支援金の契約にサインをしたら、○月○日までに会社を立ち上げて下さい」との連絡が・・・それは支援金が、国民の税金からまかなわれているからです。入賞者の中には、この知らせを受けて支援金を辞退する人まで出たと聞きました。アイデアを出しているときはワクワクしたり夢に胸を膨らませるものですが、いざ行動となったら躊躇してしまう。このお金を受け取るサインをしてしまったら、もう後戻りはできない。これから降り掛かるであろうリスクに立ち向かう覚悟を決めなければならない・・・

私は支援金を受け取るサインをしました。そして約束の期日までに”ASIA Link”を立ち上げました。もう私には戻る場所はない、だから進むしかない。そういう思いしかありませんでした。

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人材紹介業者は、自宅を事務所代わりにするわけにはいきません。独立した事務所を持つことを、厚生労働省から義務づけられているからです。だから固定費が否応なしにかかります。売上を立て、私やスタッフの食い扶持を稼ぎ、事務所の家賃を支払わなくてはいけません。日々、プレッシャーの連続です。

それでも私は、留学生という人”財”と企業を結びつけて、日本がもっと多様な文化、多様な価値観を受け入れられるような、開かれた、器の広い社会になることに貢献することに、使命を感じています。多様な文化や多様な価値観は、新しいものを生み出します。その一端を担えたらと思いますね。

 

外に出よ、心を開こう

今振り返ると私の歩んできた道というのは、手元の仕事が何も無くなってしまって「さぁ、次はどうする?」という追い込まれた状況だったり、やむを得ない環境で下した決断の連続で築いてきたものでした。しかも私は元々あまり空気を読めない人であり、そのくせ一旦のめりこんだらとことんのめりこむ性格。”空気を読めない””すぐ一つのことに没頭してしまう”ような私が、その時の直感で決めたことを推し進めた結果、今の仕事にたどり着いた感じです。

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もし、孤独を感じられているお母さんや、これからどうすれば良いか迷っていらっしゃるお母さんがいらしたら、まずは外に出てみること、心を開いてみることをお勧めします。そしてもしやりたいと思ったことを見つけられたら、それに向けて動いていただけたらと思います。
きっと仲間は見つかるし、道は見つかると思います。だからあきらめないでほしいですね。

 

小野さん関連リンク

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小野朋江さん on Radio! Part1 Part2(2011年12月放送)

 

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