黄麗容さん(マレーシア)

インタビュー&構成:徳橋功
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Wong Lai Yong
社会起業家・青少年専門家

写真提供:黄麗容さん

 

 

 

 

「世界にたった一人だけの“私”に何ができるのか」を常に問い、心の声に耳を傾けてください。

 

 

 

 

 

 

2016年の暮れ、私たちはある“女子会”に参加させていただきました。アフリカやアジアで社会の課題解決に取り組む女性社会起業家たちと、ウーマンたちが、一緒に食事を楽しみながらお互いの“失敗”について(主に英語で)話し合うという、とてもユニークな趣旨のイベントで、時にナイフやフォークの手を止めて相手の話に聞き入ったり、自らの過去をさらけ出したりしていました。

その女子会がそろそろ終わる頃、ある女性から日本語でご挨拶されました。それが今回ご紹介する黄麗容さんです。あまりに流暢なので、私たちは普通に日本人女性だと思いましたが、実際は母国で会社を経営するマレーシア人だと知り、一気に関心を持ちました。私たちは黄さんと名刺交換をしながら、インタビューを打診。黄さんから次回の来日時にお会いするご提案をいただきました。

それから約1年後、黄さんから突然メールが届きました。「近々東京に行きますので、以前お約束してくれたインタビューを、是非していただけませんか?」- あの時のオファーを忘れていなかった!そんな喜びを噛みしめながら久しぶりにお会いした黄さんは、1年前と同じようにとっても明るく、よく笑う少女のような人。しかしお話を聞くうちに目の前に現れたのは、自分にしかできないことのみを徹底して追求し、常に“他の誰でもない私”であることを希求する、高貴な魂を持つ一人の人間の姿でした。

*インタビュー@目黒

*英語版はこちらから
英語版校正:ダニエル・ペンソ

 

最初に海に飛び込むペンギン

私は、すでに誰かが手をつけている分野や事業に、2番手、3番手として入っていくのがすごく嫌なタイプ。実際に私は日本にいた時、自分の活躍の場を求めてあらゆる団体でのボランティアをしたことがありましたが、結局は不完全燃焼で終わりました。それは、私は自分自身のプラットフォームを作りたい人だから。私はゼロから事業を立ち上げるのが好きなんです。そのような私の気質は、私の会社の名前である“First Penguin”に表れています。私は常に、天敵をも恐れず最初に海に飛び込み餌を求めるペンギンでありたいと思っています。

そんなFirst Penguinである私の仕事は、中学・高校・大学生向けに青少年教育を提供すること。それを通じ、彼らや彼女たち一人一人が生き生きと輝けるように、またやり甲斐のある仕事に就いたり、自分の生き甲斐を見つけられたりするように支援する – それが私のミッションです。

他人からの目や社会の枠組み(“男らしさ”や“女らしさ”もその一つ)に縛られがちなのは、日本人だけでなく私たちマレーシア人も同じです。学校の進路指導担当者は、成績に応じて進学先をアスする一方、学生さんがやりたいことを聞いて進路先を提案するようなことはしません。また大学生は、人気の仕事や高い収入を求めて活動をします。ここでも「自分は何をやりたいのか?」という思考が抜け落ちています。

私は若い人たちに、自分の考えで自分の道を拓くことができる人間になってほしい。そのためには、まずは私自身が彼らや彼女たちのロールモデルになることが必要であり、それがつまり、私が“First Penguin”になるということなのです。

黄麗容がやらなくて良いことは、私はやりません。もし誰がやっても同じことをやるならば、これから申し上げるような、日本で経験してきた苦労など、全然必要なかったはずですから。

 

“円高”に導かれた日本との出会い

現在私は母国マレーシアを拠点としていますが、日本に約16年いました。母国で大学を卒業し、現地の日系企業で1年間勤務。その後1997年から2013年初め頃まで日本で学び、仕事をしました。そんな私が初めて“日本”に触れたのは、私が中学生の頃でした。

同級生がフランス語を勉強していたのを知り、私は父に「私もフランス語を学びたい」と言いました。すると父からは「日本語にしなさい」と意外な返事。その背景には、当時の世界経済状況がありました。

時は1980年代半ば頃、当時はプラザ合意により円の価値が上がり、マレーシアには日本からの投資が盛んに行われていました。それは、自動車学校を営んでいる私の家族にも少なからず影響しました。日本企業のマレーシア現地法人への駐在員さんの数が増え、私たちの自動車学校にも日本の免許証から国際免許証に切り替えに来る日本人が増えました。その対応のため、父も実際に日本語を勉強したくらいです。だから私も、中学2年生の頃に日本語の勉強を始めました。

私は地元の日本語の塾に通い、大人たちに交じって勉強しましたが、授業の初日に中国系マレーシア人の先生が「日本の文部省(当時)の奨学金制度があるから、それを目指してはどうか?」と言われました。その日から私は、文部省からの奨学金で日本にすることを夢見るようになりました。

その後1990年、日本語のスピーチコンテストで優勝。ご褒美として日本から招待を受けました。それから2年後の1992年、日本語筆記試験で優秀な成績を収めた人に与えられる基金からの援助で再来日しました。

 

私の魂を燃やせるものは何?

マレーシアのマラヤ大学を卒業後、ソニーのマレーシア法人に勤務。その後、かつて夢見た文部省からの奨学金で慶応義塾大学経営管理研究科(通称“慶応ビジネススクール”)に留学し経営学修士(MBA)を、さらに公益財団法人ロータリー米山記念奨学会から奨学金をいただき、横浜国立大学大学院で経営学博士を取得しました。また慶応ビジネススクールに在籍中は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に4ヶ月間交換留学しました。

私はマレーシアの大学を含め、一貫して経営学を学んできました。私が学生の頃はマレーシア国内に大学や専攻が少なく、文系では法律学か経営学しか選択肢が無かったためです。法律を学んだ場合、罪を犯した人の弁護もしなければならないと思い込んだ親から「法律学より経営学を選びなさい」と言われました。それに先ほど申し上げたように、私の家族が自動車学校を営んでいるのも、私が経営学に興味を持ったきっかけだと思います。子どもの頃からお客様からの電話に出ていたのです(笑)

私は研究者肌だった慶応ビジネススクールの指導教官に影響され、博士課程まで進み勉強しました。でも自分は研究職には向いていないと感じました。論文を書くのが嫌だったのです(笑)私は自分の進路について悩んだ末、幼稚園で研修を受けることにしました。「経営学から幼児教育?」と驚かれるかもしれませんが、そのきっかけは慶応ビジネススクールで出会った教授の一言でした。

「あなたは語学が堪能で、経営学についてよく理解している。でもそれでは不十分だ。ある業界のAからZまで分かった人間にならなければ意味がない」

そこで考えました。私はどの業界に行くべきか?どの業界に行けば、私は情熱を燃やし続けられるのか? – そこでふと頭に浮かんだのが、教育でした。

私は極めて普通の、ごく一般的な家庭で育ったにも関わらず、幼稚園から小・中・高・大学に至るまで良いで教育を受けさせてくれました。さらに海外(日本)で博士課程まで進むことができ、同年代の親戚たちとは全く違う人生を歩めています。それは両親の努力と、奨学金のおかげです。

教育を受ければ、チャンスが広がる – だから私もアジアの発展途上国の子どもたちや青少年たちに教育を受ける機会を提供したいと思い、保育や教育の分野を究めようと思いました。さらに、私はを募るのが嫌な性分なので、ソーシャルビジネスを通じて途上国の子どもたちへの教育支援をしたいと考えたのです。

その夢を実現するため、日本での保育士の国家資格取得に向け努力する一方、奨学金をいただいていたロータリークラブの会員の一人が経営する幼稚園で研修を受けました。その後、保育所を運営する日本の大手保育関連会社に入社。最初はおむつ替えをはじめとする子どもたちのお世話から始まりました。保育士資格を取得後は本社に異動し、事業所内保育所や認証保育所の企画営業や立ち上げに携わりました。

 

自分が必要とされる場所へ

保育関連企業を経て、私は(企業の社会的責任)に関心を持ち、アジア太平洋地域で事業を展開するCSRコンサルティング会社の東京事務所に入りました。一見すれば幼児教育とCSRは関係ないように見えますが、「アジアの途上国の子どもたちや青少年たちに教育を受ける機会を提供したい」という私の夢は、アジアに進出している多国籍企業でのCSR活動を通じて実現できるのではないかと思ったのです。

また私は、どの分野で活動するにしても、教育を受けた青少年たちに社会的責任のある大人、つまり「自分が取った行動がどのように社会に影響するか」を考えられる人間になってほしいと思い、そのお手伝いをするためにキャリアコンサルタントを目指しました。それは私自身の経験も大いにその理由としてあります。

確かに私は、教育を受ける機会に恵まれました。ただ学校を卒業してからというもの、私はあちこち壁にぶつかりながら方向転換を繰り返してきたわけです。もし私に、自分が進むべき道について的確にアドバイスしてくれる人がいたら、もう少しスムーズに人生を送ることができただろうと思います(笑)つまり、当時の私が必要としていた仕事をしようと思ったのです。2012年9月にCDA(Career Development Advisor、いわゆるキャリアコンサルタント。2016年4月より国家資格)を取得し、その後実際に日本の大学生や、社会人の転職希望者に対して無料のキャリアコンサルティングワークショップを開くことで、コンサルタントとしての経験を積みました。

このような活動や学びを通じて経験と知識を得た私は、2012年10月1日、アジアでCSRのコンサルティング・研修および青少年への教育プログラムの立案・実施を行う会社“First Penguin”を日本で設立。ただし、日本で活動することは考えませんでした。なぜなら私は自分が得たい経験や知識を日本で得たわけで、つまり日本には私の先輩がたくさん活躍していたからです。

「自分を必要としているところに行きたい」と思った私は、16年間住んでいた日本を離れ、マレーシアに帰国。2013年1月、私の故郷であるペナンに拠点を移し、以来青少年対象のワークショップやキャンプ開催、1対1のキャリアコンサルティングを中心とした教育事業を、母国マレーシアで展開しています。


First Penguinは青少年たちに自ら考える機会や、自分の考えを発表する場を提供している。*写真提供:黄麗容さん

 

この世に一人しかいない“私”ができること

今後私たちが実現したいことは、日本や中国を含む海外の学校を対象とした、私の地元ペナンへのスタディツアーです。“ジョージタウン”と呼ばれる有名な世界遺産があり、また多様な文化的背景を持つ人たちが住むペナンは、ダイバーシティー色豊かな地域。そのペナンに、日本の文部科学省が指定している“スーパーグローバル大学”や“スーパーグローバルハイスクール”といった、国際的に活躍する人材の育成に力を入れている学校の生徒を招くのです。様々な民族が共に平和に暮らすペナンで、現地の教育機関で学ぶ同世代の学生たちと国際交流をしながら、ダイバーシティーを肌で感じる – そのような場を作り、彼らが世界を舞台に活躍する人材になるためのきっかけ作りをしていきたいと思います。

また私は、First Penguinが提供するワークショップなどを体験した学生たちと、海外の学生たちが、一つのテーマについてディスカッションする機会も提供したいと思っています。

そしてもうひとつ。青少年への教育だけでは限界があると思います。だから私たちは、彼らや彼女たちの親御さんへの教育も行いたいと考えています。幸いにも私は、育児アドバイザーの資格をすでに日本で取得済みです。

青少年でも大人でも、大切なことは同じです。“自分の芯を持ち続けること”“周りに左右されず、自分がやりたいことをやり遂げること”。そうすれば道は開けるし、自ずと協力者が現れる – そう私は信じていますし、それこそが“First Penguin”の姿なのです。

この世の中に私という人間は一人だけ。自分と全く同じ人間は、どこにもいません。ならば「そんな私は何ができるのか」を常に自分に問い、心の声に耳を傾ける。そんなFirst Penguinに、この社会に生きる一人一人がなる – そのような世界が、私の理想です。


写真提供:黄麗容さん

 

黄さんにとって、日本って何ですか?

日本に私が来なければ、今の自分は存在しなかったと思います。

なぜなら今のFirst Penguinの経営理念や、私自身の使命、現場を重視する私の姿勢などは、少なからず日本から影響を受けているからです。もし日本語を勉強していなかったら、そしてもし日本に来なかったら、これらは私の中に無かったかもしれません。

今回私はマレーシアから来日していますが、それは表向きの話。私の中では、日本に“来る”ではなく、日本に“帰る”なのです。

私にとって日本は“もうひとつの母国”です。

 

黄さん関連リンク

First Penguin(英語):www.firstpenguin-global.com
First Penguin Facebook page(英語・中国語):www.facebook.com/FirstPenguinGlobal
内閣府男女共同参画局 平成28年度 アジア・太平洋地域で輝く女性たち 〜68名の生き方・働き方〜 報告書 p.124-125(日本語):こちら
大馬華人週刊 Chinese Weekly(中国語):こちら

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー

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