【会社員/海外渡航者の不安に寄り添う英語メンター】内藤正人さん(オーストラリア~日本)

インタビュー&構成:徳橋功
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Masahito Naito

 

一度は後悔した、私の選択。でもそのおかげで、自分が社会の役に立てていることを実感できるようになりました。

 

昨年(2025年)私たちが懇意にしている海外研修団体”インターナショナル・インターンシップ・プログラムス”(IIP)を通じて、私たちはある男性と知り合いました。海外へと旅立つ人たちに向け、オンラインでの英会話を担当する、内藤正人さんです。聞けば内藤さんは、過去に海外経験があるものの、それはIIP以外のルートで行ったオーストラリア留学でした。しかも現地の大学院でジャーナリズムを専攻されたのだとか。

一見エリート街道を歩まれたかに見える内藤さんは、ポツリと言いました。

「留学したおかげで、私は長い長い冬を経験したのです」

私たちがこれまで出会った海外経験者の方々は、いずれもご経験がプラスに働いた人たちばかり。しかし内藤さんの場合、それが裏目に出て、転職活動で失敗に継ぐ失敗を重ねたと言います。

そんな内藤さんのお顔には、笑みがこぼれていました。私たちはお言葉とスマイルの真意を確かめたく思い、私たちの分野を極められたことへの敬意を込めて、内藤さんにお話を伺うことにしました。

*インタビュー@西船橋(千葉県)

 

遠回りの先で見つけた 自分の役割

私は現在、通関関係の会社で正社員として働く傍ら、海外研修を控えている人たちからの英語指導や相談受付に携わっています。受講者の方々の英語学習や海外挑戦への不安に寄り添いながら、自分自身の経験をお伝えする機会をいただいています。

しかし、ここに至るまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。20代で会社を辞めてオーストラリアへ留学。語学学校や大学院で学んだ後、現地での就職も果たしました。しかし日本へ帰国してからはそれらの経験を活かせず、転職を失敗したりフリーターで数年食いつないだり・・・「海外へ行ったことは失敗だったのではないか」と悩み、英語スキルや海外経験を封印して生きていた時期もありました。

しかし、遠回りに思えた経験の一つひとつが、今の自分につながっていると感じます。ボランティアとはいえ英語教育に関わるようになった今、かつての自分と同じように海外へ挑戦したい人たちを応援するべく、彼らの悩みに耳を傾けています。

 

アパルトヘイトの衝撃

私にとって海外との最初の接点は父でした。父は電線関連会社に勤め、南アフリカやサウジアラビア、シンガポール、ドバイなどで電線を地中に埋める事業に関わっていました。幼い頃、私は現地に単身赴任中の父に会いに、それらの国々を訪れる機会がありました。

特に印象に残っているのが南アフリカです。当時、1970年代末期はアパルトヘイト(人種隔離政策)の真っ只中。レストランの入口やトイレなどの公共施設が人種によって厳しく分けられていました。バスの車内も、白人席が空いているのに黒人の乗客が立ったままでいる光景に違和感を抱いたことを、子どもながらに覚えています。日本人は”名誉白人”として扱われ、父も現地でそうした複雑な現実を目の当たりにしていました。

大人になってから、私はオーストラリア留学中、クリケット観戦のために再び南アフリカを訪問。1990年代終わりから2000年代初頭、ネルソン・マンデラ氏の指導のもとでアパルトヘイトは終わっていましたが、レストランに「この店は客を選ぶ」と掲げられるなど、街にはなお人種間の緊張や歴史の名残を感じる場面がありました。

幼い頃に行ったアパルトヘイト下の南アフリカと、成人後に訪れた民主化後の南アフリカ。その両方を自分の目で見られたことは、私にとって非常に貴重な経験となっています。

 

父の背中を追いかけて

子どもの頃に海外を訪れた経験はありましたが、自分から海外に興味を持つようになったのは高校時代です。きっかけは友人たちとのグアム旅行でした。初めて自分の意思で行った海外で、現地ガイドを通じてのやり取りに終始したため「英語が話せたらもっと楽しめるだろうな」と感じたのです。

また、子どもの頃に家族で行った鬼怒川温泉で、父が外国人旅行者と英語で会話している姿をすぐそばで見たことも、強く印象に残っていました。

それらがきっかけとなり、社会人になった後、私は地元の英会話スクールに通い始めました。当時の自分の拙い語学力でも、イギリス人講師と対面でコミュニケーションができることへの、言葉では言い表せない充足感や達成感を抱きました。これが外国人とのコミュニケーションや海外生活、異文化交流への入口となったと思います。

 

安定手放し豪州へ

その頃、私は大手製鉄会社の子会社で営業職として働いていました。仕事をして、たまに飲みに行く。そんな普通の会社員生活を送りながらも、どこか物足りなさを感じていました。

英会話スクールに通ううちに海外への興味が強くなり、留学や旅行関係の雑誌を通じてワーキングホリデーという制度を知ったことで「海外で暮らしてみたい」という思いが膨らんでいきました。多少無茶をしてもやり直しが利く20代のうちに挑戦しようと考えたのです。

留学先としてイギリスにも惹かれましたが、物価や気候を考え、最終的にはオーストラリアを選びました。オーストラリア人講師のフレンドリーな人柄も決め手の一つでした。

しかし、会社を辞める決断は簡単ではありませんでした。母は少なからずショックを受けていましたが、父は「きちんと準備をしてきたなら、行ってこい。ただし、少し辛いからといってすぐには帰ってくるな」と背中を押してくれました。こうして両親の理解を得て、私はオーストラリアへ渡りました。

 

英語上達の先に何がある?

語学力向上への強い思いを抱いて渡ったオーストラリア。入学した語学学校には休学中の大学生や観光ビザでの滞在者、ワーキングホリデーで来た人など、さまざまな学生が集まっていました。

印象的だったのはヨーロッパ出身の学生たちです。彼らは短期間で外国語を完璧に習得するのは難しいことを理解しており、基礎を学んだ後は旅行をしながら実践的に身につけていました。一方、東南アジアや中華圏の学生たちは、オーストラリアの大学やカレッジで学位を取得するという明確な目標を持ち、非常に戦略的に行動していました。

それらに比べると、日本人学生は目標が曖昧な人が多く、私自身も「英語を上達させたい」という思いはあったものの、その先の将来像までは見えていませんでした。

私は他のクラスメイトよりも長く、2年間も語学学校に通いました。レストランでの皿洗いやブルーベリー農園での収穫作業、街のゴミ回収など、さまざまなアルバイトを経験しながら英語学習に打ち込む日々。その甲斐あって、下から2番目の”Pre-intermediate”(初中級) から”Advanced”(上級) まで英語力を上げ、IELTS7.0(英検1級/TOEIC900点〜990点相当) も取得しました。

 

すごくても「すごい」と言うな

語学学校に通ううちに「英語を学びたい」という思いが次第に「オーストラリアに住みたい」という気持ちに変わっていきました。しかし就労ビザの取得は簡単ではなく、しかも2年間の語学留学で資金がほぼ底をついていました。私は大学院進学という道を選び、父に頭を下げて援助を受け、学び続けることにしました。

専攻したのはジャーナリズムです。人に会い、話を聞き、記事を書き、写真を撮る – そんな”好奇心を仕事にできる”世界に魅力を感じました。大学院では移民問題やジェンダーなど幅広いテーマで取材を行い、当事者にインタビューして記事を書く実践的な授業や、オーストラリアの歴史や文化の研究、映画についてのディスカッションなど興味深い講義がありました。

中でも印象的だったのが”フィーチャーライティング”の講義です。例えば、あなたが夕日を見て感動したとします。その心情を文章で描くとき、つい「感動した」という言葉を使いたくなるもの。でも教授は「その言葉を使うな」と言いました。代わりに「誰もいない浜辺に一人で立ち、沈む夕日を見つめていた」と書けば「感動した」という言葉を使わなくても感情は伝わるのだ、と。「彼は優柔不断だ」という文章も同じで、代わりに「なかなか決断を下せない」と描写する。そうした文章表現の奥深さに強く惹かれ、物事の見方そのものが変わるほどの影響を受けました。

大学院生活は課題や論文に追われる日々でした。大量の英語文献を読み込むのは大変でしたが、人生で最も勉強した時期だったと思います。そして何より、その頃初めて「勉強は楽しい」と心から感じることができました。

 

自由な大地で感じた”哀愁”

大学院在学中、私は学部長の知り合いが働いていたクイーンズランド州政府観光局で、アルバイトとして働くチャンスを得ました。私の仕事は、州の観光情報を日本の旅行会社に紹介し、日本側が求めるアトラクションなどを観光局に伝えること。唯一の日本人スタッフとして、日本語と英語の両方を使って仕事をするうち、上司から「このままここで働かないか」と声をかけられました。

ジャーナリズムの勉強は楽しかったものの、学費の負担や、30歳過ぎという年齢のこともあり、次第に学位より実務経験の方が自分には重要だと感じるようになりました。結果的に大学院は1年で離れましたが、そこで得た学びに悔いはありませんでした。

その後、観光局での仕事や生活は順調でした。しかしある時、ふと「自分はここで何をしているのだろう」と考えたのです。オーストラリアは大好きでしたが「この快適な生活が永遠に続くわけではない」という感覚がありました。将来も外国人として現地で暮らし続けるのか、自分はどんな人生を送りたいのか・・・

永住権の取得も検討しましたが、簡単ではありませんでした。 オーストラリア人と結婚して長く現地で暮らす日本人たちにも会いましたが、幸せそうに見えても、自分は哀愁すら感じました。今は良くても、老後はいずれやって来る。その時、その人たちは異国でどう過ごすのだろうか・・・

もともと私は、良い状況が続いても「いつか終わりが来るのではないか」と考えてしまう性格です。そうした思いが積み重なり、最終的に日本への帰国を決意しました。

帰国前に1か月ほどニュージーランドを旅し、その間に翻訳の仕事を手伝ったり、就職活動の準備を進めたりしました。その翻訳会社からは就職の誘いも受けましたが、すでに日本へ帰る決意をしていたため、感謝しながらも帰国の道を選びました。

 

行方不明者の救出劇

オーストラリアでの経験と英語力を活かそうと、帰国後は大使館や外資系企業を中心に就職活動。しかし届くのは、不採用の知らせばかりでした。

そんな中で偶然見つけた”インターナショナル・インターンシップ・プログラムス”(IIP)に興味を持って応募。しばらくしてアルバイトとして採用されました。

当時の私はオーストラリアのユルい感覚が抜けておらず、初日に10分ほど遅刻。スタッフさんから「内藤さん、何やってんのよ、ダメじゃない!」と、キツい洗礼を浴びました。

そんな状況で始まったIIPでの仕事。英語を使った海外とのやり取りには慣れていたため、イギリスやオーストラリア、ニュージーランドの学校との連絡業務や、海外を目指す人向けの電話英会話”フリートーク”を担当。仕事の進める上でのコミュニケーションや言葉遣いが未熟だったがゆえに、周囲との摩擦を感じながらも、自分の経験を活かせる仕事に意欲的に取り組みました。

中でも忘れられないのが、ある若い日本人女性が研修中に音信不通になった事件です。現地の関係者に連絡を取り続けた結果、本人が友人と旅行していることを突き止め、その友人を通じて本人の親御さんへ連絡するよう頼んだところ、30分後に「娘と3ヶ月ぶりに連絡が取れました。助かりました」と親御さんからお電話をいただいたのです。

自分が誰かの役に立てたことを、心から実感しました。その夜に飲んだビールは、今でも人生で一番おいしかったと思うほど(笑)。生意気で、社会人として未熟だった私でしたが、そんな私の退職時にIIPは送別会を開いてくれました。その席で先輩から言われた「内藤君を見ていると、若い頃の自分を見ているようだ」という言葉は、今でも私の心に残っています。

その後、IIP在籍中に見つけた外資系航空会社の関連会社に就職。しかし社内で吹き荒れるリストラの嵐や、お互いを助け合おうとしないギスギスした雰囲気が合わないことを感じ、私は退職を決意。この後の数年間、私にとって本格的な”冬の時代”を味わうことになります。

 

3年続いた”お祈りメール”

オーストラリアでの経験を活かそうと就職活動を続けましたが、履歴書を送っても返ってくるのは不採用通知ばかり。「誠に残念ながら」「今後のご活躍をお祈り申し上げます」・・・そんな言葉を何度も目にしました。

それでも応募をやめるわけにはいきません。かといって求職だけに時間を割くわけにもいかない。私は派遣の仕事やアルバイトを掛け持ちしながら生活しました。日中は工場で仕分け作業をし、夕方から航空貨物の通関関連の仕事へ向かう、そんなダブルワークの毎日。夜8時や9時に帰宅して食事を済ませた後、求人情報を探し、興味を持った求人に履歴書を書く。そして寝て、また翌朝から働く。その繰り返しでした。

体力的にも精神的にも、決して楽ではありませんでした。当時はすでに30代半ばに差しかかっており「この生活がいつまで続くのだろう」「自分は本当に就職できるのだろうか」と強い不安に苛まれました。

それでも諦めずに働き、応募を続ける。先が全く見えない日々が3年間も続きました。帰国後から続いていた不安定な生活に区切りをつけたい。まずは生活を安定させたい・・・そんな気持ちが日に日に強くなっていきました。

私は「給料が高くなくてもいいから、正社員として働ける安定した仕事に就こう」と思いました。そして通っていたハローワークで、ある通関関連の会社を見つけました。アルバイトで通関業務の経験があり、しかも年齢制限も無く過去の経歴も問わない。私は興味を持ちました。

特に大きな期待をしていたわけではありません。「とりあえず応募してみよう」という気持ちで履歴書を送ったのが、その年の8月。翌9月に面接の連絡をいただき、10月に内定しました。

就職活動で不採用が続き「留学は失敗だったのではないか」と悩み続けた私は「オーストラリアでの経験は話さない」「英語スキルがあることを伝えない」と決めました。過去を封印し、新しい人生を始める決意で、私は入社しました。

 

瞬時に解かれた封印

私は海外からの輸入食品を検査する部署に配属されました。輸入食品に問題が見つかると、海外の工場や事業者から送られてくる英文資料を読み解かなければならない。当時は社内にも、また管轄する行政側にも英文を正確に読める人がほとんどいません。

Google翻訳など無い時代。自分が英語を理解できないふりなどしたら、輸入そのものが止まってしまいます。私が書類の内容を解読し、業者さんや行政側に説明し、関係各所との調整を担うしかありませんでした。

自分では隠しているつもりでも、仕事ぶりを見れば周囲は気づきます。やがて「あの人は英語ができるらしい」という話が広まり、その背景を尋ねられるようになりました。

最初は複雑な気持ちもありました。しかし今振り返ると、どれだけ封印しようとしても、それまで積み重ねてきた経験や、培ってきたスキルは消せないのだと思います。英語力も海外経験も、自分の一部にまでなっていました。そして、誰かの役に立ち評価されることで、少しずつその事実を受け入れられるようになっていったのです。

 

長い冬、終わる

一方、オーストラリアからの帰国後に勤務した海外研修団体との縁は続いていました。2024年頃、当時の同僚だった研修プログラム担当から「ボランティアを募集しているんだけど、やってみない?」と声をかけられます。内容は、海外から来るゲストのアテンドや、オーストラリア生活に向けたアドバイス、英語指導(フリートーク)などでした。

最初は戸惑いました。英語力への不安もあり、しかも封印した英語の世界に再び戻ることにためらいがあったからです。それでも「友人の頼みなら」と、かつて私が帰国後に担当したフリートークを引き受けることに。かつて電話英会話として担当していたプログラムは、今はオンライン形式へと変わっていました。

フリートークでは日常会話だけでなく、ディベートや、様々なシーンを想定したロールプレイ、日本紹介のプレゼン練習など幅広いリクエストに対応します。実際に始めてみると、英語力は思ったほど衰えていませんでした。

それ以外に、ある高校生の女の子から英検のスピーキング対策のリクエストをいただいたことも。私は英検指導の専門家ではありませんでしたが、一緒に試験内容を確認しながら練習を行いました。結果的に彼女は英検2級に合格し、意気揚々と海外研修に向けて出発しました。

受講者から「またお願いしたい」「親身になってくれて助かった」と言われるたびに、私は自信を取り戻していきました。「自分は単なる英会話講師ではない、自分の経験を踏まえた助言も行う”英語コミュニケーションのメンター”のような役割を担っているのだ」と感じられるようになりました。

これから海外に渡る人たちや、今現地で研修中の人たちと関わる中で「まだ自分は役に立てる」と実感し、長く続いた自分の“冬の時代”がようやく終わったことを感じたのです。

 

迷わず行けよ、行けばわかるさ

私は「留学しなければよかった」と後悔したこともありました。でも今は違います。留学経験があったからこそ、海外に挑戦したい人たちを支えられるようになったのです。

受講者がどこでつまずくかは、自分自身が同じ苦労をしてきたからこそよく分かります。だからこそ、英語やコミュニケーションの楽しさを伝え、自信を持って海外へ踏み出せるよう後押しする – それが今の私の役割だと思い取り組んでいます。私はこの活動を、定年まで今の会社で働きながら続けようと思っています。

今後、私自身が海外に移住することは無いでしょう。でも海外へ行くかどうか迷っている人には「行ってみるといいよ」と背中を押したい。転職についてもお悩みを打ち明けられることがありますが、私は「いろいろな仕事を経験したほうが人生の自信になりますよ」とお話ししています。 これまでの自分の経験が、冬の時代も含めて良い意味で、全て過去のものとして捉えることができるようになったからこそ、そう伝えられるようになったのだと思います。

海外経験の価値は、必ずしも当初の目的を達成することだけではありません。私が出会った日本人の中に、現地の語学学校である日本人女性に出会い、中途退学して2人でバックパックを担いで旅行をし、やがて帰国して結婚した人がいます。英語の習得という当初の目的は達成できなかったかもしれません。でもお互いが人生のパートナーと出会えたのだから、留学は十分成功です。体験に”正しい”も”間違い”も無いと思います。

 

大切なのは「行きたい」という気持ちが本物かどうか。その思いを持ち”未知なる経験”に向かっていく人たちを、今も、そして遠くない将来に定年を迎えて本業を退いた後も、私は応援していきたいですね。

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー