ラティール・シーさん(セネガル)

インタビュー&構成:徳橋功
ご意見・ご感想は itokuhashi@myeyestokyo.com までお願いします。

 

パーカッショニスト
(1993年に来日)

3702  

アフリカ人も他の人たちも
僕らは同じ人間なんです。

 

今回はからやって来た凄腕パーカショニスト、ラティール・シーさんをご紹介します。かつてネルソン・マンデラコンサートや、2002年日韓共催W杯、ミッテラン大統領などの歓迎式典など、的な大舞台で経験を重ねてきました。しかもの伝統芸能との共演も果たしています。

ラティールさんの人生や音楽への哲学が育んだ、日本に向ける独自の視線を感じてください!

*インタビュー@井の頭公園

版はこちらから!

 

「奴隷の島」で生まれた

僕の生まれ育ったセネガルのゴレ島は、かつては奴隷を排出してきた島でもありました。僕のウェブサイト(latyrsydiaspora.com)の名前にある「ディアスポラ」(離散)は、ゴレ島を象徴する言葉です (*現在のサイトはhttps://latyrsy.com/)。

やブラジル、キューバなどには、かつて僕が生まれた島から奴隷のために移送され、以来、島に帰ることなく奴隷として連れて行かれた地に住んでいる人たちがたくさんいます。 彼らの中には、家族ともども連れて行かれ、売られた人もいました。こうした過去があるからこそ、僕は自分のサイト名に「離散」の言葉を入れたのです。「自由」の意味を込めて。

奴隷の島で生まれたことを、僕は本当に誇りに思います。そして他の人たちにも、僕の生まれ育った島で暮らす人々のを、もっと知ってほしいと願っています。

 

「東京は暑い!」

東京に来たのは、もともと来たかったわけではありません。たまたま休暇がとれる時があって、その休暇中にちょっと日本にに来ないかと、日本人の知り合いから誘われたからなんです。そのときは日本に3ヶ月滞在し、それからセネガルに帰りました。その後再び日本に来て本格的に住み始めました。

東京に着いた時の第一印象は、街自体がすごく大きくて、圧倒されて、ひどく疲れましたね。初来日がイコール、僕がセネガルから出国した最初の旅でもあったんです。飛行機にもこの時初めて乗りました。もちろん、こんなに遠くまで旅行したのは初めての経験でした。 来るまでの間、日本については何も知りませんでした。

実際来てみると、もう驚きの連続でした。高いビル、たくさんの車、そしてたくさんの人。 日本に着いたその日は本当に暑かったんですよ。35度はありました。アスファルトから湯気が出ていたほどです。セネガルも暑いですが、日本のような暑さじゃないんです。日本のように湿気が多くなく、カラッとしているのがセネガルです。たぶん、日本のような暑さは感じないでしょうね。 日本の夏は暑苦しいし、何もしていなくても汗が出てきます。セネガルでは、夏も風が吹いて涼しいし、泳ぎにも行けます。

東京などは、近くにシーリゾートと呼べるところがありませんよね。僕のいたゴレ島なんかは、海に囲まれていますから当然、海に精通しているし、泳ぎや釣りも知っています。 東京に対してそこまでは期待していなかったものの、来日当時はあまりのシーリゾートの無さに驚きました。

 

故郷に帰ることだけを考えていた

セネガルとは気候が違うし、べ物も違うし、言葉も違う。あと僕が日本に来た頃は、日本人は黒人に慣れていなかった。僕にとってはそれがかなりショッキングでした。

その上、日本語が話せませんでしたから、人とも話せなかったしね。日本人は日本人で、英語が話せない人もいたし。

それに日本人はシャイですよね。こちらが道を聞いても「わかりません」なんて言ってサッと行ってしまう人もいましたからね。僕が通りを歩いていた時に、僕の顔を見て「びっくりした!」なんて言った人もいました。

セネガルのパーカッション奏者で日本に来て実際に住むようになったのは、僕が最初でした。だからすっごく大変でしたよ。自分の国の言葉さえも話す機会がなかったですから、話したい時はセネガルに電話するしかなかった。セネガルに帰ろうなんて、何度も考えましたよ。友人もいなかったですし、あまりに辛かったですから。

 

伝統芸能との出会い

セネガルに帰った時は正直、ほっとしました。やっと帰ってきたって感じですね。でも不思議なんです。日本に滞在したのは3〜4ヶ月ぐらいだったんですが、セネガルに帰ると、今度は「もう一度日本に戻りたい」と思うようになったんです。それで再び日本にやって来ました。日本食に慣れたのが大きかったですね。

初めて来日した頃の僕はすごくシャイで、誰とも話さずに、いつも一人でいました。けれど慣れるにしたがって、自分が考えていることを他の人に話せるようになったんです。

この変化は、音楽にも表れてきました。ストレスやプレッシャーを感じることなくドラムを演奏できるようになったんです。全てはとてもスローですが、だけど着実に変化していきました。

来日してから、僕を日本に招いてくれた人に会いました。その人が、能楽師や日本舞踊の名取といった人たちに僕を会わせてくれたんです。彼らの舞台も見に行きました。

 

日本にいる意味がある

能楽堂などに行くたびに感じたのは、僕のような若い世代の日本人がいなかったこと。だからそのような場所に行ったり、ご年配の方々とディナーやパーティーに伺う機会を与えてくれたことに感謝です。その方々が僕に日本語を教えてくださいました。

僕は思いました。「僕がいるべき場所は、日本なんだ」と。アメリカでも、フランスでもなく、日本なんだと。それらの国々を通過してここに来たわけですから、僕がここにいるのは何かしらの理由があると思っています。

「自分の文化を伝えること」「日本の人たちにアフリカのことを伝えること」。これらがその理由だと思っています。

 

ドラムはファッションじゃない

ドラムはファッションではありません。生まれたときから、周りの人たちはすでにドラムを叩いていたし、セネガルに戻ると、今でも彼らはドラムを叩いていますよ。日本語的なをするならば「おかげさまで」今こうして自分の国の音楽を引っさげて、いろんな国々に行けるんです。

僕は自分の音楽を、もっと人の心を震わせたり揺さぶったりするものにしたいと思っています。僕は何かを作り出すのが好きなんです。なぜなら、世界は次世代の人々のために創造を必要としているからです。では、創造に必要なのは何か。それは、創造をするうえでの基礎となるものです。では、「基礎」とは何か? 僕の結論は、ルーツです。自分たちのルーツである伝統をまず大切にして、それを基礎にして新しいものを生み出していくことが大事です。そうやって初めて、人々の感情を揺さぶるものが生み出せると思います。

日本の若い人たちはアメリカやから来た、今風の物が好きですよね。僕は長い歴史を誇る場所から来たから、そのことにとても驚きました。

今は僕もアフリカンパーカッション講座を開き、生徒さんたちがあつまってくれるのですが、彼らに言いたいのは、ドラム演奏の内面を知るべきだということです。アフリカでは、ドラムは長い間、コミュニケーションツールとして使われてきました。ファッションのために叩いているのでは決してないんです。そして僕らは、心の底からドラムを愛しています。日本の人たちにも、もっとそのことを意識してほしいんです。

 

不可能なことなど無い

日本の伝統音楽はとても深くて、そして繊細で、意味をたくさん含む部分がありますね。尺八の音色や、能の発声、歌舞伎、日本舞踊、全てに意味があります。それはアフリカも同じです。アフリカに行けば、その地特有のリズムが感じられます。日本独特のリズムも、それらと一体となることが出来るんです。なぜなら僕が日本に長年住んでいますから。

セネガルと日本が一体になれるかどうか? それを実現させるためには、お互いがお互いを感じ合い、理解し合うことが必要です。

アフリカのリズムと日本の能が、どうやったら融合するんだ?そう考えるでしょう。でももし試したら、意外にうまくいくもの。不可能なことは無いのです。

能の鼓とアフリカのジャンベの共演も、全く変なものではありません。ただ日本は、伝統文化に高い敷居を設ける傾向があります。子どもたちの将来のためには、伝統文化の世界の人たちの意識も変えていく必要があるでしょうね。

 

試せ。聞くことをためらうな

大切なのは、体で何かを感じること。そして好きなように頭を動かしたり、足を動かしていいんです。僕は自分のアフリカン・ドラム教室の生徒に、そう教えています。

しかし難しいことがあります。僕が生徒さんに手を叩くよう教えると、確かにそうするんですが、それは周りが手を叩いているからなんです。「みんながこっちに行っているから、僕らもこっちに行こう」と考えることが、一番克服すべき難関です。

「あなたにはあなたのアイデアがあるし、あなたのスパイスがあるよね。私にもアイデアとスパイスがある。これらを混ぜたら、きっとおいしくなるよ」 。生徒さんには是非、こういう考えを持っていただきたいのですが、なかなかそうはなりません。

しかも彼らは私に聞いてきません。その代わり、生徒さん同士で聞き合っている。僕が教えているんだから、僕に聞くべきなんです。躊躇しすぎだと思います。「なぜ僕に聞いてこない?なぜ先生と生徒がいるんだ?」。そんなことを考えて、ちょっとイライラすることもあります。

 

僕らは同じ人間なんだ

僕が初めて日本に来た時、僕は日本について考えすぎていました。でもそんな時期は過ぎました。ようやく日本での生活を楽しめるようになったと思います。今なら何をするべきか、どうすれば楽しめるかは分かります。

人間なんて、アフリカ人でもそれ以外の地域の人でも感じることは同じです。僕らは同じ「人間」なんです。だから「心」が大事です。それも広い心が必要です。それさえ持てば、問題なんて起きません。どこへ行っても、人から愛される人間になるでしょう。そういう思いを実践してきたことが、日本での生活の助けになりました。

 

日本のリズムをいつも感じてる

能には「三番叟」(さんばそう)という彼ら独特のリズムがあります。そのリズムと僕らのリズムを融合させることはできます。大切なのはイマジネーションです。相手から何を感じるか。自分に向かって響く音をどう感じるか。本当にたくさんのことを感じなくてはなりません。

僕を見て、「日本人みたいだ」と思う人がいるかもしれません。実際に、「もうすっかり日本人だね」と言ってくる人がいますが、そんなことは決してありません。ただ確かなのは、僕は、今いる環境を感じ、そして聞こえてくる日本のリズムを感じている、ということです。それらを伝える手段として、僕はアフリカの伝統的なリズムを用いています。

 

アフリカ文化 日本から世界へ

明日何が起こるなんてわからないけど、日本とセネガルの関係が今よりもっと良くなるよう願っています。人々がお互い助け合い、感じ合えるようになればいいなと思います。僕がやっているのは音楽であり、音楽は、すなわち「感じること」だと思っています。理由も無く戦ったり、殺し合ったりすることじゃないのです。

僕が日本に来たのは、きっと日本で果たすべき「使命」や果たすべき役割があったんだと思っています。なぜ、日本に行くのが僕だったのか?僕以外でも良かったはずです。僕の家族は、僕を日本に行かせたくなかった。「何て所に行こうとしてるの。行ったって知り合いなんか誰もいないんだよ。それに遠いし」。誰もが日本のことを知りませんでしたから。

きっと、それが僕の使命なのでしょう。家族や友人からも、遠く離れてしまった。全てを故郷に置き去りにしてまでここに来たのは、セネガルを代表して日本に来るという使命だったんでしょう。全ての音楽家は、それぞれの国の大使。僕らは自分たちの国を代表して来ているんです。

僕は今、日本を拠点にしてアフリカに関することをしています。日本からアフリカは遠いですが、それは可能です。日本から大きな波を生み出し、世界中にそれを広げようと考えています。それが僕の夢なんです。

IMG_2933_edited.jpg 
撮影:竹森正幸さん  

 

ラティールさんにとって、東京って何ですか?

全ての出発地点、それが東京です。僕が故郷を離れてから最初のスタート地点です。東京は素晴らしい人たちに出会える街、最高の音楽を演奏できる街、そして僕の「使命」を果たすべき街です!

 

☆書籍版では、ラティールさんが自らの人生について、さらに深く語られています。
書籍「My Eyes Tokyo」のご購入はこちらから!

 

ラティールさん関連リンク

公式ウェブサイト:https://latyrsy.com/  

IMGP3346.jpg 
ラティールさんの講座(池袋) 

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー

コメントを残す