孔連順さん(在日コリアン)

インタビュー&構成:徳橋功
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Kong Ryon Sun
「あーすフェスタかながわ2011・2012」企画委員長

 

 

私に国籍はありません。

 

 

「日本とは文化背景が思い切り違う人が、日本や東京をどのように見ているかを知りたい」という思いから、日本から距離的にも文化的にも遠い国々の出身者を中心にインタビューしてきたMy Eyes Tokyo。従って、必然的にアジア諸国出身の方々へのインタビューが少ないのです・・・大変失礼しております。そんな私たちが、このたび「日本生まれの外国人」とのインタビューに臨みました。

孔連順(コン・リョンスン)さん、3世。2012年5月19日(土)〜20日(日)に横浜市内で行われる、多文化共生をテーマとした大規模イベント”あーすフェスタかながわ”の企画委員長です。

もちろん、私は在日コリアンの存在を知っていました。でも、彼らを外国人と見なしてインタビューして良いのだろうか?外国人として接しても良いのだろうか?と勝手に思い込んで、敢えてインタビューをしてきませんでした。しかし、孔さんの気さくさに背中を押されて、思い切ってインタビューを申し込んでみました。

日本で生まれ育った”外国人”である孔さんが、多文化共生社会の実現を自らの生きる道と決めた経緯、そして今いる場所と自らのアイデンティティの狭間で揺れ動いた苦悩のストーリーを、ドリンクバーとホルモンとお酒で割と明るくお話していただきました!

*インタビュー@鶴見(横浜市)
*英語版はこちらから!

 

多文化共生って?

私の住んでいる神奈川県はずいぶん前から「」に力を入れてきました。県内にはNPOなど市民レベルで国際交流活動をされている団体がたくさんあり、また主要の民族団体もいくつかあります。

それらの人々が多文化共生の旗印の下に集まり、催すイベントが”あーすフェスタかながわ”です。多文化共生をテーマにしたイベントは全国各地で行われていますが、県と市民の協働事業としておこなわれているのは”あーすフェスタ”だけかもしれません。

「多文化共生」という言葉を意識する人はそれほど多くないし、その言葉の意味を存じている方もそれほど多くないのではないでしょうか。もちろん私だって、その言葉の定義をロクに知らないまま、あーすフェスタの企画委員になりましたから、人のことは言えませんが(笑)

英語などの外国語を話せれば、それがそのまま多文化共生になるわけではない。外国人が日本語を覚え、話せたとしても、まだ十分ではない。実際、外国籍の子どもたちが日本人に対して心を開くまでは、時間がかかります。「果たしてこの人は、私のことを理解してくれるのだろうか」という不安が、どうしても生じてしまうと思う。かつての私もそうでしたから、よく分かります。

どちらか一方通行ではなく、お互いがお互いに出来ることを考え、お互いの可能性を引き出して生きていけるようにしていく。それが多文化共生だと思います。その実現に向けて大切なのは、相手のことを知ること、そして私たちは本当に共に暮らしたいと思うのか、共に生きるとはどんなことなのか、そこまで踏み込んで考えることが大事だと思います。

 
あーすフェスタかながわ2011(2011年11月26日〜27日)

 

日本人だと信じていた

私がこの「多文化共生」に携わるようになった背景を話すには、私自身のこともきちんとお話しした方が良いと思いますので、ちょっとお話ししますね。

私は在日コリアン、もっと言えば在日朝鮮人3世です。でも誤解しないでほしいのは「在日朝鮮人=北朝鮮にルーツを持つ人」ではありません。 北朝鮮国籍とか朝鮮民主主義人民共和国籍を持っている人は、この日本には存在しません。

※Wikipediaより:第二次世界大戦終結後、朝鮮半島は事実上日本政府の統治下から脱したものの、朝鮮人は引き続き日本国籍を有した。1947年に制定されたポツダム命令の一つである外国人登録令(昭和22年 勅令第207号)が施行された。これにより、朝鮮の旧植民地出身者は日本国籍を持ちながら国籍等の欄に出身地である「朝鮮」という記をした。「朝鮮」は便宜上の籍であり、正確には登録法制上の記号である。

「朝鮮籍」とは国籍ではなく”朝鮮半島出身者という意味の表記”です。ですので、「朝鮮籍」を持つ私には国籍がないということです。いまだ日本は朝鮮民主主義人民共和国いわゆる北朝鮮とは国交もないので当然「北朝鮮籍」も存在しません。そして何より私自身の本籍は今の韓国なんですよ。でも「韓国籍」を取得していませんね。

私が生まれたのは岩手県で、育ったところは東京の大田区です。両親は朝鮮のことをあまり教えてくれなかったし、祖父も祖母も、私が物心つく前に亡くなっていました。だから私が民族的な意識をきちんと持ち始めるのは、民族学校に行ってからです。それまでは「私は日本人」と信じてやみませんでした。小学校は地元の公立でした。その当時は、いわゆる”通名”を使っていました。

 

アイデンティティに気づいた日

小学校4年の始業式を翌日に迎えたある日。親から「このおじさんについて行きなさい」と言われて弟と行った – そこが民族学校でした。電車やバスで学校に向かう間、おじさんから「君たちは在日朝鮮人だから、この学校に行かなくちゃいけないんだよ」と言われた。ショックでしたよ。「何でこのおじさんにこんなことを言われなくちゃいけないのか」って。でも薄々「ひょっとしたら私たちは純粋な日本人じゃないかもしれない」とは思っていました。生活の所々で日本語とは違う言葉を使っていましたから。

民族学校に入るやいなや、公立小学校時代の友達から一斉に総スカンを食らいました。それまでは、当時住んでいた集合住宅の隣近所の子たちと、近くの空き地で仲良く遊んでいたんです。なのにその日を境に、彼らに声をかけても知らんぷりされる。遠くから「朝鮮人!」と私を罵る声が聞こえる。それで私がその子の方を振り向くと、逃げていく。私が見たことも話したことも無い子だったんですけどね。

もしかしたら、彼らにとっても裏切られた思いがあったのかもしれません。小学校入学当初から「私は在日朝鮮人」と言っていれば、それほどの拒絶反応は無かったかもしれない。でもある日突然のカミングアウトだったから、それがショックだっただろうし、そのショックを表現する方法がイジメという形だったのだろうと、今にして思います。

でも当時の私は、それまでの日常から自分だけ外されて、まるで自分一人だけ、全然違うところから、昨日まで空き地にいた自分を見ているような気持ちになりました。昨日までの自分と、今日の自分は全く同じ。なのに自分がみんなの輪にいないのが不思議で仕方がありませんでした。

私は友達の態度の変化で、自分の最初の民族的なアイデンティティなるものを感じたんです。

 

優しかった日本人の先生

それまでの日常から、別の世界に引きずり出され、そしてそれがどんどん広がり、やがて私の日常になりました。民族学校は、マイノリティの集団。友達同士いたわりながら、励まし合いながら日々生活していました。だから私は、その環境に馴染むことができました。

ちなみにクラスメイトの会話は朝鮮語。授業も朝鮮語で行われるし、それをマスターするためにも、日本の小学校にあたる段階で、友達とは朝鮮語で話し始めるように先生が指導します。しかも一日の終わりに「今日はいくつ日本語を話したか」を言われてしまう。それくらいスパルタだったので、私は早く朝鮮語を覚えましたよ。どちらかと言えば勉強が好きな子だったから、授業が理解できないのがイヤだったんです。とはいえ、最初は先生の言っていることがチンプンカンプンでしたよ。今の日本の外国籍の子どもと全く同じ状況でした。

先ほど言ったように、民族学校に入るときに私は友達からいじめられました。でも小学校3年の時の担任の先生が、心配になって何回か学校にいらしてくれたんです。私が学校に馴染んで、きちんと勉強しているか、見に来て下さいました。授業中に振り向くと先生がいたり、入学が遅れたのを補うための補習を受けている時に横を見たら先生がいて「頑張ってる?」って声をかけてくれました。それまでは「日本人なんて、みんな敵だ!」とまで思っていたのに、その尖った心を和らげてくれたんです。

しかもその先生が、私が通っていた小学校のクラスで、私の状況を話して下さったんでしょう。何人かが私のところに来て「ごめんなさい」って謝ってくれました。彼らとはまた仲良くなって、その後に東京から神奈川に引っ越した後も、文通を続けるくらいの間柄になりました。

 

「仲間を増やせ」

私は、民族学校の保護者会に入っています。民族学校が助成金をなかなか得られない中で、バザーをしたりキムチを売ったりしながらお金を稼ぎ、学校に納入するのが、ちょっと前までは保護者会の大きな仕事でした。

ある年から、市から学校への助成金がカットされることになりました。「日本の学校に対しても一律25%助成金をカットしているんだから」と、役所の方に言われました。そこで私たちも、どうにか状況をひっくり返したいと思い、涙ながらに陳情に行きました。

すると担当の方は「私たちに言われても、どうにもならない。それより、やり方を変えてみたらどうですか?」とおっしゃいました。「大きな壁に体当たりしていくより、地域住民からの理解を得られるように活動していけばいかがですか?」と。つまり、理解ある日本人の仲間を増やしていきなさい、ということです。その助言にはハッとさせられました。

それまでは「明日食べるご飯より、今日食べるご飯の方が大事だ」とばかり思っていましたが、その方のおかげで「明日のご飯、ひいては未来永劫ずっと食べていけるご飯を子どもたちに残して行く方が、大事なのではないか」と思うようになりました。

私のモットーは「思いついた人間が、最初にやる」。だからたとえ協力が得られなくても「じゃあ私がやるよ」と考えられるんです。それで失敗したら、原因を探って改善していけばいい。でもやらなかったら、何も始まりませんよね。

地域から塀などで隔離された民族学校であってはならない。地域の中にある民族学校でなくてはならない・・・それからは、バザーなどのイベントの告知を新聞のチラシと一緒に入れてもらったりして、何とか地域の人たちにも来ていただけるように努めました。町会長にもイベントの告知をし始めました。そうやって、日本人の方々から理解を得るための活動を始めたんです。1999年頃のことです。

それが、私にとっての多文化共生に向けた活動の第一歩だったと思います。

 

どっちが壁を作ってる?

周囲の保護者の方々とは、すぐに足並みが揃ったわけではありません。在日に対するヘイトクライムは今でもあるし、そのたびに、保護者の中には「やっぱり日本社会との融合は無理だよ」と思う人も出てきます。

日本人との交流や相互理解は、言うほど簡単なことではありません。「日本人も、在日を含めた外国籍市民も、お互いに心を開こう」と言ったって、お互いに見られたくない部分だってある。一方で私たちだって、相手のことに関与したくないと思うこともある。お互いに聖域があり、お互いを隔てる川が流れています。 人は目で見たものだけを信じるわけではなく、噂やイメージといった目で見えないもの、本当かどうか分からないものが先行し、それが人を支配しているように思います。そして、それは日本人だけでなく、私たち外国籍市民も同じなんです。私たちだって「どうせ日本人は私たちのことを・・・」と思いがち。でも、それだってイメージや偏見ですよね。

今では”あーすフェスタ”の企画委員長を務めさせていただくようになった私でさえ、あーすフェスタに携わる前は、心を開くことができた日本人は少なかったように思います。まして自分の考えを洗いざらいはなすことのできた日本人は、いませんでした。でも一方で、本当は「私のことを知ってほしい、理解してほしい」という思いが強かったのも事実です。

そんな相反する気持ちを抱えながら悶々としていた私が、理解し合える日本人と、ある日出会いました。その方に”あーすフェスタ”のお手伝いに誘われたのです。


あーすフェスタかながわ2011(2011年11月26日〜27日) 

 

壁が外れた瞬間

「イベントで、チマチョゴリの試着を手伝って下さい」と、その方に頼まれました。彼女は日本人ながらも、民族学校の状況を心配してくれていました。その後、何度かその方にお会いしましたが、いつも私の話を聞いて下さいました。「これだけ私の話を、偏見なく自然に聞いて下さる日本人の方がいるんだな」と思いました。だから私も自分の思いの丈を、その方に素直にお話しました。彼女と出会うことで、今まで抱えていたストレスから解放された思いがしました。その人に誘われて、2009年から実行委員として”あーすフェスタ”に参加しました。

心を許せる日本人と、初めて出会いました。それに、あーすフェスタに携わる日本人の方々に対しては、自分の中の壁を外してお付き合いすることができた。それと同時に、マジョリティが壁を作っていただけでなく、マイノリティも壁を作っていたんだ、ということに気づかされました。

多文化共生という大きな大きなテーマに本格的に取り組み始めたきっかけは、そのような極めて個人的な出来事だったのです。

 

多文化共生の理想型?

「はい、これが多文化共生の理想の姿だよ」と提示するのは極めて難しい。でも、私たち”あーすフェスタ”の企画チームは、もしかしたら理想型にかなり近いかもしれません。

いろんな国籍の人たちで成り立つ企画チームは、語り合うだけでありません。語り合い、いわゆる”議論の場”だと、声の大きい者や弁が立つ者に発言の機会が集中します。そうではなく、フェスタという大きな目標に向かって共に汗を流し、一つの物を協同して作り上げて行く過程の中で、お互いに分かり合い、理解し合う。それを私たちは大事にしている。それが私は素敵だと思ったし、「あなたももっともっと自分を出していいんだよ!」と言ってくれたような気がしました。


企画会議。孔さんを始め、運営者の国籍はカナダ、カンボジア、中国など多岐にわたる。

 

いつか、ひとつに

そして、あーすフェスタに参加するようになってから”在日コリアン”という呼称も受け入れるようになったんです。

実は、以前はあいまいにごまかしているようで嫌でした。朝鮮人とあえて名乗ることで、偏見と闘うぞって妙に突っ張っていました。 私の民族的なアイデンティティや「立ち位置」をしっかり誇示する名称でした。

他国の大きな力によって祖国と民族が分断され、言葉も同じハングルなのに、韓国語と呼ばれたり朝鮮語と呼ばれたりする。最近では「・朝鮮語」「・朝鮮人」などと呼ばれるようになってきていますが、それでもまだ違和感が残ります。そのように言われると「本来は一つの言語だし、一つの民族なのに・・・」という説明書きを付け加えたくなります。そういう意味では「在日コリアン」は説明の必要がありませんよね。せめて在日同胞の間では、分断の悲しみを感じたくないんです。

私は、在日の歴史が埋没されている日本の現状で、自分の歴史や家族の歴史に背くような気がして、私の国籍表記(”朝鮮”)を替えていません。私の祖父が玄界灘を越えて日本にやってきた、その時の、まだ1つだった朝鮮半島の状態を、私の国籍表記に封じ込めておきたかったからです。

私は、朝鮮半島が南北統一したら、その時に国籍を、その新しい国籍に替えると思います。その日が一日も早く来るのが、私の願いです。

 

孔さんにとって、日本って何ですか?

(しばらく考えて)・・・ホームスタジアムかな。

たとえば野球の試合で、ホームの選手に打順が回ったらファンは最高に盛り上がるでしょ。あの雰囲気が大好き。ホームグランドでは絶対勝たなくちゃって、選手もサポーターも一体になっている。

私を応援してくれる家族も友人もみんな日本にいる。安心できるし、心強いし、本当に頑張れる。私もここでなら「寂しくない」「勝てるぞ」って気にさせてくれる、日本はまさにホームですよね。

いろんな場所に行っても、結局一番安心できるのは、日本です。故郷って言ってもいいけど、それはもう少し先にとっておきます(笑)




あーすフェスタかながわ2011(2011年11月26日〜27日)

 

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