林隆太さん(日本/華僑4世)

インタビュー&構成:徳橋功
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Ryuta Hayashi
映画監督

自分の背景は胸を張って語れるものじゃない – 僕はもう一つのルーツを”無視”することにしました。

 

ついに、この人をMy Eyes Tokyo(以下MET)でご紹介させていただく日がやって来ました。映画監督の林隆太さんです。

MET編集長である徳橋は、ロサンゼルス近郊の日本語テレビ局に勤務していた約20年前、地元のカレッジ(短大)で学ぶ留学生だった林さんに出会いました。彼らは同じホストファミリーの家に住み、アメリカの音楽シーンやゴシップネタ、街や学校で見かけた女の子の話などで日々盛り上がっていました。

徳橋が日本に帰国してからもメールやSNSを通じて交流が継続。林さんの帰国後、何度か実際に会う中で”横浜中華街の歴史を描くドキュメンタリー”の制作に取り組んでいることを徳橋は聞きました。そして2021年初夏、徳橋はあるインターネットニュースで林さんの名前を見ます。

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華僑四世の林隆太が長期にわたって神奈川・横浜中華街の華僑を撮影したドキュメンタリー映画「華のスミカ」が、8月より全国で順次公開される。(「映画ナタリー」2021年6月11日配信)
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「ついに完成したんだ・・・」と感慨に耽ったのも束の間、徳橋はすぐに林さんに連絡を取りました。長い長い年月を経て映画監督として世に出たことへの祝福と、しばらく不義理にしていたことへのお詫びから「ぜひインタビューさせてほしい」と伝えました。

そして『華のスミカ』初上映を目前に控えた8月中旬。カリフォルニアの一つ屋根の下で共に暮らしていた時に徳橋が正面から聞けなかったこと、自分のルーツに対する複雑に絡み合った自身の心境、それから解放され自分のルーツに真正面から向き合うまでの経緯について、林さんにお話いただきました。

*インタビュー@ローズホテル(横浜中華街)

 

自分は一体誰?

僕に限らず、ハーフの人たちは自分のアイデンティティの問題に一度は必ずぶつかると思います。しかも僕自身、15歳になるまで100%日本人だと思っていました。まるで”ミニッツメイド日本人味”(笑)でも実際は”50%”に過ぎず、しかも僕の中にあるもうひとつの”華僑”というアイデンティティは、常にふわっとしていました。父や祖母、親戚たちが、自分たちが華僑として生きてきた歴史を、僕や兄に一度も話してくれたことが無かったからでしょう。自分が何者であるかはっきりと言えないようなもどかしさをずっと感じていた僕は「どこかのタイミングで、きちんと日本の華僑の歴史について調べよう」と心に決めました。

僕の”ルーツ探し”の旅。それは父がこの街に関りを持ち始めてから、彼が日本国籍を取得するまでの歴史を追うことから始まりました。中華街の外で育ったよそ者の僕は「父は横浜山手中華学校の卒業生なんですよ」と出会う人たちに伝えながら、この街に入っていきました。やがて父に近い関係にいた人たちに出会い、彼らの肉声を聞くことでこの街の歴史を紐解いて行きました。撮影に6~7年、その前にリサーチなどでさらに3年、合計約10年にも及ぶ制作の過程で、僕の家が中華街と深い関わりを持っていることをはっきりと感じられるようになりました。

僕の心境とシンクロするように、中華街にも変化がありました。特に横浜中華学院(中華民国系)と横浜山手中華学校(中華人民共和国系)の関係です。もともと横浜にあった中華学校は横浜中華学院だけでしたが、毛沢東を支持する教育が学内で行われているとして、その中心となった教師たちが追放される「学校事件」が1952年(昭和27年)に発生。これを契機に横浜山手中華学校が生まれ、2校間で長らく対立が続きました。中華街では、これらの関係を表立って口にするのはタブーとされていましたが、最近になってそのような状況を記録に残そうとする動きが出始めています。そのタイミングで『華のスミカ』が公開されることになったのです。

 

「どこからどう見ても日本人」

僕は華僑の香りの薄い環境で育ちました。正月はおせち料理ではなく中華料理が食卓に並び、親戚たちと中華料理店に集まりこそすれ、お互いが交わす言葉はほぼ日本語。時々理解できない言葉を口にしていましたが、それらを僕は”大人にしか分からない言葉”だと信じて疑いませんでした。父の兄の兄である伯父(※『華のスミカ』に出演)からもらったお年玉には”学銀”と書かれていましたが、それが彼の本名だと知ったのは、それから随分後の話。なぜなら伯父は周りから”よしかずさん”という通名で呼ばれていたからです。同じように父は”ひろ”と呼ばれていたし、しかも我が家は旧正月を一切祝いませんでした。仮に旧正月の習慣が身近にあったら、僕もすぐに自分の出自に気づいていたでしょう。

母と結婚する時、僕の母方の祖父から”日本に帰化すること”を条件に提示された父。決して差別的な意味は無く、むしろ父が日本に溶け込み生活しやすくするための祖父の配慮であり、また華僑の家系に嫁ぐ娘を心配する親心もありました。それに納得したのでしょうか、父はもともとの”李”という姓を、結婚を機に彼の母、つまり僕の父方の祖母の姓だった”林(りん)”に変え、しかも読み方を”はやし”としました。悠々と流れる長江に思いを馳せていた父は、一方で日本社会で生きる覚悟を決めたのだと思います。だからこそ、敢えて僕や兄には自分の背景を教えなかったのかもしれません。

今でも覚えているのが、小・中学校時代の同級生の女の子のこと。明るく可愛らしい子で、僕の母と彼女のお母さんも仲良くしていました。彼女の家の前で、彼女が出てくるのを待っている間、お母さんは僕にコーラと韓国海苔をくれました。彼女は韓国人のお母さんを持つハーフだったのです。やがて進学した中学校では、彼女は同級生の男の子に韓国名を言われながらからかわれていました。

そのことを、僕は自分の真実を知ってから思い出しました。その前の僕、自分が”ミニッツメイド”だと信じて疑わなかった頃の僕は、むしろ中国に対して良い印象を抱いていなかった。だから自分の背景など、決して胸を張って語れるものではない – 僕は自分のもう一つのルーツを隠すのではなく”無視”することにしました。ニュースで在日中国人による犯罪が報じられたり、日中関係の不安定さを論じられたりしたとき、そばで誰かが中国の悪口を言ったとしても、僕は関わらないようにしました。まして我が家のことに触れてほしくなかったから、半分笑いながら彼らに同調していたほど。自分が周りから「どこからどう見ても日本人」だと思われたことにホッとしていた僕は、自分の出自を知った後も、その前と変わらない態度で生きていこうと考えたのです。

 

広く多様な世界を求めて

一方で僕は海外に憧れを抱くようになりました。高校1年生ごろ、ちょうど僕の真実を知った後のこと。日本人が日本人としか交わらず、日本のことしか触れないという状況に急に気持ち悪さを覚えたのです。「もっといろんな文化や人種が存在する場所に行きたい」と思い目指したのが、ジャーナリズムの本場アメリカです。僕は心のどこかで、自分のルーツを追い、それをいつか何らかの形で世に出したいと考えていたのだと思います。

奇しくも僕が通っていた高校からは、カリフォルニア州立大学に指定校推薦で進学することができました。僕が俄然やる気を出したのは言うまでもありません。勉強に励み、当時の基準だった「英語+国語の評定平均4.5以上」をクリアしました。そこで母に相談したら「NO!」。お金がかかることをその理由にしていましたが、子どもを海外に出すことが非現実的に思えたり、僕の本気度を疑わしく思ったりしたのかもしれません。

アメリカへの道を断たれた僕は、英語や外国語に関係する学部をいくつか受験し、神奈川県にある大学の英語学科に進学。しかし大学のカリキュラムが、当時自分が本当に学びたい、知りたいと思っていたこととかけ離れているように感じました。語学だけではなく、日本以外の文化や社会、人種・民族のことをもっと学びたい!知りたい!という欲望が頭をもたげてきたのです。僕の思いが叶う場所を目指し、再び世界へ飛び立つことを決意しました。

かつて経済的な理由で断念した苦い経験から、僕はアルバイトに精を出しました。中学時代から貯めていたお金と合わせて100万円に達したところで本格的に準備を開始。留学斡旋会社を通じて申請書類を作成し、保護者の印鑑を押印する段階で、母に僕の計画を話しました。母は「じゃあ、お父さんに話してみなさい」と一言。その昔、商売のコツを学びたい一心でユダヤ系アメリカ人に会うために渡米した父。「お前が結婚する人の目は、何色でも構わない」と口癖のように僕に言っていた父 – 僕は自分のアメリカ行きを確信しました。

 

ルーツに誇りを持つ人々

ついに憧れの地を踏んだ僕は、ロサンゼルス近郊オレンジカウンティにある語学学校へ。しかし文法学習など座学が中心だった6か月コースを途中で解約し、ネイティブたちと交流することで英語コミュニケーション能力を磨き、ジャーナリズムを学ぶべくカレッジに入学しました。

その当時、僕はある家族のご自宅に間借りしていました。日本への留学経験があるメキシコ系のお母さん(ホストマザー)、すでに離婚した日本人のお父さんとの間に生まれた2人の娘、彼女たちを優しく見守るおばあちゃんという個性豊かな人たちです。

中でもおばあちゃんとは、2人きりでよく話しました。おかげで”¿Qué pasó?(どうしたの?)”とか”¿Dormido?(寝た?)”などのスペイン語を覚えましたね。おばあちゃんに喜んでもらおうと、カレッジのクラスメイトからスペイン語を教えてもらったこともありました。そんなおばあちゃんから、ある日訥々と言われたのです。

「ここは人種や文化、宗教が入り混じった国。日本とは明らかに違う環境をあなたは経験できているの。だからこの国の良いところや悪いところを、日本の文化などと照らし合わせて判断するのではなく、1人の人間として、心で判断して、良いものだけを学んで帰りなさい。それがあなたがアメリカでやるべきことなのよ」

2人の娘たちとは、おばあちゃんとほどではありませんでしたが、少しだけやり取りがありました。口数が少ない妹さんは、ある日僕の部屋のドアに「れいぞうこに ごはんがある(冷蔵庫にご飯がある)」と平仮名で書いた手紙を挟んでくれました。陽気な性格のお姉さんは、外出する僕に突然「行ってらっしゃーい!」と日本語で言ってきたり(笑)。自分のルーツの言語はほとんど話せないけど、自分が生まれ育ったアメリカに馴染んでいる彼女たちの姿が、同じように自分のルーツの言語をほとんど話せないけど、自分が生まれ育った日本に馴染んできた自分自身と重なりました。しかも彼女たちはアメリカ人として、極めて自然体で生きている – そんな彼女たちに僕は気持ちよさを感じたし、「アイデンティティは他人に決められるものではない。自分自身がどう思うかが大事なのだ」と思いました。

同じようなことを、現地で中国系アメリカ人に会った時にも感じました。僕の父が中国人であること、僕のひいおばあちゃんが中国から日本に来たことなどを話すと、彼らは僕に興味を持ってくれて、お互いに距離が縮まりました。しかも自分でも驚いたのは、日本では躊躇した”自分の背景の開示”が、アメリカだと自然と出来たことです。

僕の父より前の世代はいざ知らず、なぜ4世代目になっても、まだ自分の出自に負い目を感じるような精神性に陥らなければならないのか。日本への移民は常にそのような状況に苛まれるべきなのか考えたときに「それはちょっと違うだろう」と。僕が出会ったアジア系アメリカ人の方が逞しく堂々としていました。マイノリティでありながらも、ベトナム系や中国系であることに誇りを持って生きている人たちを見て「これでいいんだ!」と、ようやく思えるようになったのです。僕のホストファミリーのおばあちゃんが言った「アメリカの良いところを学んで帰りなさい」という言葉は、まさにこの瞬間のためにあるのだと思いましたね。

 

”ニガー”と呼ばれたアジア人

オレンジカウンティでの生活は十分満喫しました。しかし日本人が多く、日本のものが簡単に手に入る環境から離れたいと思い、僕は他の州のカレッジに行くことを決意。こうして僕は、アメリカ中西部のカンザス州に移りました。

カンザスでは、アジア人は珍しかったようです。ある日ジョギングをしていたら、ピックアップトラックに乗った高校生くらいの男の子から石を投げられました。他にもスーパーのレジに並んでいるときに他の客に割り込まれたり、ある親が子どもに「あの人を見たらダメ!」と言っている場面に遭遇したり・・・

でもそれらを「差別だ!」と糾弾するのは早計だと思います。彼らは単純にアジア人のことを知らないだけのこと。しかも僕が住んでいたのは人口6,000人くらいの田舎だから、人々はやることがなく暇を持て余している。僕のような人は、彼らのような人にとって恰好の暇つぶしのネタだったのでしょう。

そんな土地では、一度「こいつは面白い奴だ!」と思われたら、状況は一気に逆転するものなのです。

ある日カレッジのカフェテリアで1人でご飯を食べていた時。突然僕は、自分が座っていた椅子ごと浮きました。黒人のバスケットボール選手が「同じイロモン同士、俺たちと一緒に飯食おうぜ!」と、彼らの席に僕を担いで連れて行ったのです。それをきっかけに黒人選手たちとの交流が始まり、やがて彼らが本当に信頼できる、心から仲間だと思える人にしか使わない(他の人種が黒人に言ったら差別と扱われる)”ニガー”という言葉で呼ばれるまで仲を深めたのです。

クラスメイトと一緒に参加したホームパーティー。僕はある白人の女の子から「アジア人はビビリなんだってね。あなた、こんなの飲めないでしょう?」と、並々とウォッカが注がれた大きなカップを差し出されました。僕は平気な顔をしてそれを飲み干し、さらにウォッカを注いで飲み干し、3杯目を注いで彼女に突き出して「僕のことをビビリだと君は言うけど、君こそビビリなんじゃないの?」と言い返しました。その様子を見ていた周りの人たちは大爆笑。僕はその夜から”チャンピオン”と呼ばれるようになりました。それをきっかけに、白人が中心の女子ソフトボール部からノッカーを頼まれたりと、カレッジでちょっとした有名人になってしまいました(汗)

 

”空白”と向き合う

アメリカの2つのカレッジでジャーナリズムを専攻する一方、カリフォルニアのカレッジでは写真を副専攻に。やがて一枚の写真から、複数の写真が連なって生まれる映像で表現することに興味を持つようになり、その在学中に映画を学び始めます。目指したのは、著名な映像クリエイターを数多く輩出してきたUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)映画学部やカリフォルニア州立大学ロングビーチ校。「いつか僕も、アメリカのメインストリームにウケる映画やミュージックビデオを作るんだ!」 – それは決して夢では無かったと思います。トランスファー(編入)の基準を満たすのに十分な成績を取っていましたから。

しかし”年間400万円”という学費を前に尻込みし、後ろ髪を引かれる思いで日本に帰ることとなったのです。

それでも映画熱が冷めやらぬ僕は、映画やドキュメンタリーの制作で名高い日本映画学校に入学。カンザスに移る前後から「自分のルーツにきちんと向き合わなければ!」と思っていた僕は、ここで”華僑の歴史”を追及するドキュメンタリーを作ることを決めました。1年生の頃、写真とインタビュー音声で映像を作るという実習で、初めて中華街について調べました。2年次では一旦華僑から離れ、当時盛んだった法政大学の学生運動を軸にした企画を提出し制作・発表。3年次の卒業制作で再び華僑をテーマとし、いよいよ僕の家族にカメラを向けることになります。

父のすぐ上の兄である、僕のもう一人の伯父(※『華のスミカ』には出演していない)は、かつて福建省から親戚の女の子を日本に呼び寄せました。その存在を全く知らず、彼女が”家族の中の中国”を体現しているように思えた僕は、伯父がなぜその子を日本に呼び寄せたのかを知りたい一心で『島国に咲く紅い華』という40分のドキュメンタリーを作りました。

卒業後、ドキュメンタリーやニュース番組の制作に関りながら、さらに僕のルーツを探る旅を続け、約10年かけて『華のスミカ』を作り上げることになります。華僑にとって横浜中華街は実際に住んでいる場所である一方、日中関係に翻弄され、中国に帰ればスパイ扱いされたりするなど、華僑にとって住処にしたくても住処にできない横浜中華街の存在を表すために、さらには日本をはじめとする世界各地が華僑にとっての住処なのではないかという思いから”スミカ”というカタカナで表しました。

この映画の撮影で、僕は初めてひいおばあちゃんが育った福建省の地を踏みました。小石を並べただけの小さな小さな一家のお墓の前で、僕は言いようの無い感謝と尊敬の念に囚われました。ひいおばあちゃんが日本にやってきた約100年前は、日本への渡航だけでなく、上陸後も中国人として大変な思いをしながら生活をしてきたことは想像に難くありません。やがて日本で祖母が生まれ、父が生まれ、そして僕が生まれた・・・その時に至るまで、日本での生活の場を整えてくれたことへの感謝と敬意が、一気に僕の心の中に押し寄せてきたのです。

華僑歴史研究者・関廣佳さんとのトークショーも行われた『華のスミカ』上映初日。NHKなどのメディアが取材に駆けつけた。
2021年8月21日@横浜シネマリン

 

”あるべき姿”って何?

華僑は世界中にいます。僕が住んでいたロサンゼルス周辺はもちろん、ニューヨーク、サンフランシスコ、カナダ、オーストラリア、ドイツ、イギリス・・・これらの場所に住んでいる人々に、日本独自の華僑の歴史、いわば「日本にも華僑あり」ということを伝えたい。自分にとっては、日本人や日本国内だけに向けて映画を作ることに不自然さを感じるから、ちょうど良いのではないでしょうか。今すでに、韓国と横浜中華街をつなぐ中華民国(台湾)系華僑の歴史を追うという構想を練っています。

今作が僕にとって本格的な映画監督デビュー作となりますが、僕のことを華僑系監督でも、日本人監督でも、どのように見ていただいても良いと思っています。ただ僕自身は、どちらか一つだけを選ぶ必要は無いと思っていますし、2つの”名札”があって初めて自分なのだと感じています。むしろ今は、先ほど言ったこととは矛盾するかもしれませんが、単に日本人だというよりは、華僑4世の映画監督だと思われる方が全然良いと思っているくらいです。

時代は進み、日本人も多様化しています。その好例がテニスの大坂なおみ選手です。「アフロアフリカンのルーツがあり、しかも日本語があまり話せない彼女を日本代表にしても良いのか?」などという論調がありましたが、そんなことは周りの人が決めるのではなく、彼女自身が決めれば良い話です。また、これとは逆のケースですが、バンド「リンキン・パーク」のメンバーで日系アメリカ人3世のマイク・シノダは、日本語がほとんど話せないけど、日系1世である彼の祖父への敬意を込めて『Kenji』という曲を作った。つまり国籍とルーツというのが全く同じである必要は無く、国籍はどうあれルーツについてどのように思っているか、どのくらい大切に思っているかが大事なのではないでしょうか。

大坂なおみ選手や、バスケットボールの八村塁選手を見るたびに、僕は「こういう日本に、ようやくなってきたんだ。良かったな」という思いで満たされます。この日本という土地を基盤に生活できている。それでいいじゃん!肌の色とか関係ないじゃん!としか思えないのです。

 

もし僕の家族のことでからかわれたとしても、今の僕なら言えます。「僕はあなたたちよりも、広い世界を見て、たくさんの様々な経験をしてきたよ」と。「ちょっと早口で英語をまくしたてられたら、何も言えなくなるような”ビビリ”じゃないよ」と(笑)自分に言い聞かせながら、上を向いて歩いていきたいと思います。

 

林さん関連リンク

『華のスミカ』HP:hananosumika.com/

 

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