松本利々子さん(後編)

インタビュー&構成:徳橋功
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Ririko Matsumoto
ダンサー/振付師/指導者

 

で今自分ができることを精一杯やる。そしていつかウクライナに戻りたいです。

 

 

 

ウクライナのバレエ界で活躍し、現在はからの避難で日本に帰国している松本利々子さんとのインタビュー。後編では、開戦前夜から2022年2月の開戦の瞬間、首都脱出から国外避難を経て日本に辿り着くまでの軌跡、まだ見えぬ終戦後への展望について語っていただきました。

*インタビュー@駒込(豊島区)

 

前編からの続き)

「戦争?起きるわけない」

私自身も日本から頻繁にメールや電話をいただき、”第三次世界大戦”の可能性まで口にされました。しかしすぐには信じられませんでした。私の職場であるバレエ学校でも、ウクライナ人の同僚は「戦争なんて起きるわけがない」と言っていたくらいです。

それより約8年さかのぼる2014年、私より先にウクライナにバレエをしていた姉は、EU加盟を巡る国内での大規模騒乱の渦中にいました。当時も日本大使館から「1~2週間はキーウ中心部に行かないように」という勧告が出ていましたが、実際はさほど危険な状況にはならなかった。それも私が今回、大使館からの呼びかけに真剣に応じていなかった要因。それにウクライナで結婚して家庭を築き、仕事をしながら暮らしている身としては、国を離れることに抵抗を感じていたのも事実です。

一昨年の初め、私はウクライナ人の旦那、そして1匹の猫と一緒にキーウ中央駅の近くに住んでいました。そこは東京で言えば八重洲や丸の内にあたる中心部。2022年2月24日朝6時、日本にいる母からの電話で私は目覚めました。

 

着の身着のまま首都脱出

「ついに始まったよ!」。そう叫ぶ母に私は「何が?」。それくらい現実味が無かったのです。しかししばらくしてふと我に返り「起きるわけが無い」と誰もが思っていた戦争が、実際に起きてしまったことへの恐怖と、大使館からの呼びかけに応じなかったことへの後悔の念に襲われました。それらを振り切るように「私は絶対に死なない。絶対に生き延びてやる!」と強く誓いました。

開戦当日は平穏だった街の中心部。しかし翌25日には自宅からも爆撃音や銃声が聞こえるようになり、部屋の窓ガラスにガムテープを貼って割れないようにしたほど。「このままでは危ない」と思った私たちは、キーウから約530キロ離れた、私の友達が住むウクライナ西部の街リヴィウに逃げることにしました。

「リヴィウ行きの列車が17時ごろ中央駅を出発する」- そう友達から聞いたのが同日16時。1時間では荷物をまとめることなどできるはずもなく、本当に”着の身着のまま”、その時着ていた服のまま、パスポートや財布、携帯電話、パソコンを小さなリュックに詰め込んで、中央駅に向かいました。

駅に着くと、構内は人であふれ返っていました。17時発の列車は見送らざるを得ず、その後に来た列車にも乗れない状況に。誤って子どもだけが列車に乗ってしまい「ママー!」と叫ぶも、成すすべなく途方に暮れる母親がいたり、駅構内でざわつく人たちを鎮めるために警察官が天井に向かって銃を発砲したり・・・でしか見たことがない光景が、緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響く中で繰り広げられていました。

列車を3本見送り「もし4本目に乗れなかったらキーウに残ろう」と、私の旦那や、一緒に西へ向かうことになった私の友達と話し合いました。しかし次に来た列車に、私たち3人と1匹の猫が運良く乗車。4人用の客室に20人近くもの人たちが入り、通路にも人々があふれる寝台列車は、一路リヴィウに向かって走っていきました。

 

国境まで2キロ

出発から6~7時間が経ち、列車はリヴィウに到着。国境まで約80キロにまで迫るその街なら安全だろうという私たちの期待に反して、キーウと同じようにサイレンが鳴っていました。落ち着かない気持ちを抱えながら、私たちは友達の家へ。しばらくそちらに滞在させていただく予定でしたが、予想以上にリヴィウが危険であることを感じ、別の場所への移動を強いられました。

ちょうどその時、ある人から連絡が届きました。私の親友の日本人女性と結婚したウクライナ人男性からです。彼の実家はスロバキア国境からわずか2キロの場所にあるウジュホロドという街にあり「家に来ていいよ」と言ってくれたのです。そこは一戸建てだから長居しても良い、と。私たちはリヴィウを離れ、私が仲良くしていたキーウ駐在日本人商社マンの部下の方が手配してくれた車に乗り、約250キロ南西に位置する国境の街ウジュホロドへ。通常なら4時間程度で着くところを、同じ方向へと避難する車で道路が渋滞していたため10時間以上かかりました。それでも国境を越えようと3~4日間車中泊した人たちに比べれば、早く到着できたと思います。

私の親友はすでに隣国のに避難していたものの、ウジュホロドは予想通り安全な街でした。しかしそれも束の間、到着の約1ヶ月後には、その街でもサイレンが鳴り響くようになったのです。キーウで聞いた、緊急事態を知らせるものでは無く、敵方の戦闘機の上空通過を警告するものではありましたが、やがてサイレンそのものが私にとってトラウマになり、眠れなくなりました。それは日本帰国後も続き、夏を迎えた頃には花火がサイレンを思い起こさせたほどでした。

 

大切な人たちのもとへ

再び退避の必要に迫られた私は、ついに日本への帰国を決意。3月17日、親友の招きでウジュホロドからハンガリーへバスで移動しました。道中は渋滞がほとんど無かったものの、国境を越える時に難題が発生。車内にいた3~4人の赤ちゃんや、爆撃で家を無くしパスポートも消えてしまった家族のために臨時のパスポートを作る必要が生じ、通常なら30分~1時間程度で国境を越えられるところが、10時間近くも足止めをらったのです。ようやく国境を越え、ハンガリーの首都ブダペストの鉄道駅に到着。そこで親友に再会し、彼女のご自宅に2~3日滞在させてもらいました。

ここまでお読みの皆さんは、疑問に感じられるかもしれません。「旦那さんは、どうなったの?」

2月24日の開戦後、日付が25日に変わって間もない午前1時、ウクライナのゼレンスキー大統領が徴兵令を発令しました。それまでに国境を越えて隣国へ移った男性は、全て徴兵を免れます。しかし2月25日午前1時を境に、ウクライナ国内に居住する18歳~60歳の男性は国外へ出ることを禁じられたのです。その時、旦那は私や私の友人とキーウの自宅におり、部屋の窓際にいると爆撃音で寝られなかったため、部屋と部屋をつなぐ通路に身を潜めていました。発令の報道をテレビで見た旦那は「ついに出ちゃったね」と一言。私はその意味が分からず「何が出たの?」。彼は自分が徴兵令に従わざるを得なくなった現実を、私に伝えたのです。

「もし私が日本に帰ったら、永遠にウクライナに戻れないのでは?旦那にも永遠に会えないのでは?」その思いがあったから、母国に帰ることを躊躇していました。しかしこれ以上、両親を心配させることはできなかった。彼らは戦火の真っ只中にいる私を心配するあまり、発狂寸前の状況。だからハンガリーに脱出しました。でもウクライナに留まることができないのなら、両親を安心させ、自分も不安を感じずに過ごすために日本に帰るべきだ、と。それは私だけでなく、旦那の思いでもありました。

2~3ヶ月日本に滞在した後、再びウクライナに帰るんだ – その決意と希望を胸に日本行きのエアチケットを購入。親友に別れを告げ、ハンガリーからスイス経由で成田へと飛びました。

 

いつか必ず戻る 愛すべき場所に

「戦争、早く終われ!」と心の底から思います。その一方で、私がウクライナに渡った2015年当時は全く考えもしなかった日本への帰国は、戦争が起きたことがきっかけでなされたことだし、今年2月まで2年近く関わってきたウクライナ避支援は、日本にいなければ従事できなかったこと。だから、気持ちは複雑ですね。

「なぜ日本でバレエ関係の仕事をしないの?」と、帰国してから頻繁に聞かれます。でもそれは、先ほど言ったように日本ではバレエで生計を立てることができないからだし、この国ではバレエへは”裕福な家の子の習い事”のように扱われているから。バレエ公演の入場料が高いのはそのためです。私は習い事にはお付き合いしてこなかったし、これからもするつもりはありません。だから日本では、バレエ以外の世界に触れているのです。

繰り返しになりますが、早く戦争が終結してほしい。それまでの間、私は日本で自分ができることを精一杯やる。そして戦火が止んだら、私はウクライナに戻りたい。自分の目でその後の状況を確かめながら、再び指導者としてバレエダンサーの育成に取り組みたいと思います。

 

やがていつか、本当にいつになるか分からないけど、苦しんでいる人がいない世界で暮らせるようになる – それが私の心からの願いです。

 

My Eyes Tokyo

Interviews with international people featured on our radio show on ChuoFM 84.0 & website. Useful information for everyday life in Tokyo. 外国人にとって役立つ情報の提供&外国人とのインタビュー

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