田村徳樹さん

インタビュー:徳橋功/ホフ・ジェニファー・アンドレア
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(English article here)

 

Noriki Tamura

 

僕はただホットドッグを売っているんじゃない。夢やワクワクを世界中に届けているのです。

 

 

私たちMy Eyes Tokyo(MET)がへの旅を決めた今年(2023年)MET英語版編集長でバンクーバー出身のジェニファーが、彼女が長年親しんできたあるホットドッグチェーンについて教えてくれました。バンクーバー市内を中心に展開し、本場アメリカへの進出も果たした日本風ホットドッグ店、その名も”JAPADOG”です。そのユニークさから数多くのメディアで取り上げられ、実際にジェニファーの周りでも知らない人はいないほど、地元の人々の生活に溶け込んでいます。

旅の日程が近づくにつれ、ただ単にカナダの多様さを視察するだけでなく、現地で活躍する日本人にインタビューしたいと思うように。そこで真っ先に思いついたのが、今回ご紹介するJAPADOG代表の田村徳樹さんでした。田村さんはカナダ東部での新店舗オープンに向けて忙しく飛び回る身であるにもかかわらず、私たちからのインタビューの申し出をご快諾くださいました。

そして果たした、田村さんとの出会い。ちょっぴり日焼けした田村さんは、私たちが恐縮するほど腰が低く、とても気さくで、しかも大変謙虚な方。一見すると”典型的な日本人”と思えるほどですが、実は全く日本人離れした大胆な発想と行動力の持ち主だったのです。

*インタビュー@バンクーバー

バンクーバー市内中心部にあるJAPADOGのお店に行きました!

私たちの滞在先のそばにあったドライブスループの屋台(ブリティッシュコロンビア州リッチモンド)
屋台のそばにあるテーブルに書かれた「いただきます」

全客層で人気No.1のKurobuta Terimayo(左)日本人客の間で人気No.1のOroshi(右)

 

見る前に跳べ

僕が経営する”JAPADOG”は、2005年に1台のフードカートから始まって以来、バンクーバーとアメリカ・ロサンゼルスで合計11店舗(※2023年8月現在)まで広がりました。うち実店舗は4つ、残る7つは屋台です。カナダでの売上が伸びた後、長年の夢だったでの出店も果たしましたが、残念ながら撤退。しかしその後進出したロサンゼルスでの売上は絶好調で、グワカモレドッグやナチョスなどのラインナップが主にラテン系の人たちの間で人気です。

僕が若い頃に描いていた未来予想図に、カナダはありませんでした。この国に来たのは、本当に偶然のこと。そしてここでは、文字通り”ゼロ”からの出発でした。英語力もゼロ、アイデアもゼロ。ホットドッグも、日本にいた時から食べていたわけではありませんし、料理に関しては「食べることは得意!」と公言しています(笑)今でも僕は自分のことを”成功者”などと思っていません。「何かに挑戦したい若者たちにメッセージをお願いします」と頼まれたら「もっと成功している方に聞いてください」と言ってしまいます(笑)

でもそれは、自分の夢の実現にはまだまだ遠いと思っているからだし、それに僕は考える力が弱い(笑)だから「まずはやってみよう」と、体の方が先に動いてしまうのです。僕のこれまでの人生は、その繰り返しだったように思います。

 

燃え尽きた球児を救った男

僕はもともと少年でした。栃木県小山市に生まれ、幼少期からプロを目指して野球に励みました。そういえば、北米ではホットドッグを食べながら野球観戦をしますよね。その点では、現在の道にかすかに繋がっていたのかもしれません(笑)茨城県内の高校を卒業後、一般入試で青山学院大学に入学し、野球部に入部。しかし怪我がもとで大学2年で退部を余儀なくされました。父は街の小さな不動産屋さんを営んでいましたが、それを継ぐことなど全く考えず、ただひたすらボールを追いかけていた僕は、目標を見失い、燃え尽き症候群に襲われました。その状況から脱出しようと、ゴルフ場などでアルバイトをしながら必死に将来の道を探しました。

その頃、僕はある講演のお知らせを目にしました。の超大物実業家が来日 – 暇を持て余していた僕は、その人の背景など全く知らず「とにかく凄そう」という印象だけを頼りに、有楽町の国際フォーラムへ。そして会場で販売されていた彼の著書を読んで、初めてその人が何者であるか分かったのです。

リチャード・ブランソン – 発のコングロマリット”ヴァージングループ”の総帥です。

僕は野球を断念してから、それに代わる”ワクワク”をずっと探していました。そしてブランソン氏に出会い「これだ!」と思いました。「自分でビジネスを生み出すことが、こんなにもワクワクすることなのだ」と – 僕が起業を目指した、その”はじめの一歩”でした。

 

社長兼アルバイト

自分で事業を起こす前に、社会の仕組みを学ぼうと、大学卒業後に外資系の医療関連に入社。世界的に有名な会社の日本法人で、手術用の糸や針を病院に販売する営業を担当しました。しかし「やはり自分で事業をしたい」と思い、入社わずか半年後に退社。地元に帰り、パソコン教室や、当時流行していた”i-mode”向けの広告会社を立ち上げました。

ついに起業 – そう言うとカッコいいですが、後に妻となる女性の手を借りながらもなかなか利益が出せず、アルバイトで生活費を確保していたのが実状です。その状況が約3年続いた後、携帯電話の小さな画面ではなく、もっと大きくて手に取れる雑誌を作りたいと思うように。オンラインメディア全盛の今と発想が全く逆ですね(笑)夢を追いかけるカッコいい人たちを紹介する雑誌を自分の手で作ろうと、妻は編集プロダクションに、僕は業界新聞社に入り修業。やがて広告営業も学ぶ必要があると考え、僕はリクルートに入りました。

会社の雰囲気が肌に合い、仕事も面白く、夢中になって働きました。しかし入社後約3年が経ち、20代最後の年を迎える頃、僕はふと立ち止まって考えたのです。「これから僕は何をしよう?」「僕が本当にやりたいことって何だろう?」

その時思い出したのです。大学4年生の頃にロサンゼルスやサンフランシスコ、ニューヨークを周り「いつかアメリカで自分のビジネスを立ち上げよう」と決意したことを。その後紆余曲折を経て、20代後半に妻との婚前でニューヨークを訪れた時、その思いをさらに強くしました。

「渡米する時が来た!」そう意気込んだのも束の間、アメリカでは起業ビザの取得に高いハードルが存在していました。夢の実現が遠ざかるのを感じた時、僕はふと思いついたのです。「同じ北米なら、カナダはどうだろう?」と。

 

計画ゼロで海を渡る

カナダはオーストラリアなどと同じくワーキングホリデービザが取得できる国のひとつで、それを使えばどこででも仕事をすることができます。

「・・・ということは、ワーホリビザで起業もできるんじゃないか?」

そう考え、僕は妻と一緒に2005年にカナダへ。手にした周遊チケットでカナダ各地を周り、気候が比較的温暖なバンクーバーを拠点にすることに決めました。

しかし僕は、カナダで何をするか、全く決めていなかったのです。

ただ一方で、日本を発つ前、当時日本で流行していたメロンパンや、海外でも人気の日本食である寿司を作れるように、それらのお店で修業していました。そんな折に、ニューヨークに住む友人から「クレープはここには無い」と聞き、同じ北米であるカナダでクレープの屋台を開くというアイデアが浮かびました。

その実現の可能性を探ろうと、僕はバンクーバー到着の翌日から中心部の屋台を周り、お店の人たちと話しました。しかも、偶然にもホットドッグの屋台です。しかしバンクーバーでは、屋台で提供できる食材はコーヒー、ナッツ類、そしてホットドッグに限られていたのです。

「さあ、どうするか」- 英語力はほぼゼロ、これと言った才能も無いと自覚していた僕に、カナダで生き残る道は他にありませんでした。屋台での開業を諦めること、それはすなわち”失意の日本帰国”を意味していました。

考え抜いた末に、僕はバンクーバーで食べ歩いていた、ホットドッグでの開業を決定。仲良くなったホットドッグ屋台から耳にした、バンクーバー市政府による開業場所の抽選に参加し、ダウンタウンのバラード通りとスミス通りの交差点を割り当てられました。そこは多くのホットドッグ屋台がしのぎを削る場所だったのです。

 

No orderでも他に道なし

「僕らが普通のホットドッグを売ったら、埋もれてしまう」。そこで僕と妻は、日本のテイストを前面に出した商品で勝負しようと決め、2005年に”JAPADOG”を開店。妻と一緒にメニュー作りに取り掛かりましたが、全商品を日本風にしたら売れないだろうと思い、当時8つあったラインナップのうち2つだけ日本的なホットドッグ – テリマヨと串焼き(野菜やソーセージを串に刺してパンに乗せたもの)- に。しかし、特に串焼きはNo order。誰も買いませんでしたね(笑)それでも「一度動かしてしまった船は、もう元の場所へ返せない。前に進むしか選択肢は無い」と思った僕らは、売上が立たない日々を、自分の商品を食べて凌ぎながら地道に営業を継続。試行錯誤を繰り返すうち、アジア系の人たちの間で少しずつ話題になり始めました。

一方で海苔や鰹節など和風のトッピングがアジア系以外のカナダ人から敬遠されていました。しかしアルバイトとして雇用した地元の若い大学生などと一緒にワイワイ話し合いながら商品開発を進めるうち、日本風のホットドッグがあらゆる層に受け入れられるようになったのです。

鰹節を大量にまぶしたお好み焼き風ホットドッグOkonomi(左)とろけるチーズが食欲をそそるLove Meat(右)

そして2010年に開催されたバンクーバーオリンピックを契機に、カナダ最大の放送局CBCなど北米のメディアで紹介され、また第1号店の目の前にある五つ星ホテルに宿泊していたラッパーのアイス・キューブや俳優のスティーブン・セガールといった世界的セレブたちがJAPADOGの商品を買い、それらを世に紹介してくれたおかげで、売上と知名度に弾みがつきました。

その勢いに乗り、2012年には念願だったニューヨークに進出。しかしバンクーバーとのホットドッグ文化や人々の好みの違い、さらにそれらに臨機応変に対応できるほどの商品開発力やスピードに欠けていたため、撤退を余儀なくされました。もしかしたら”餃子ドッグ”を提供したのも、その一因かも(笑)しかし反対側の西海岸、ロサンゼルスでは主にラテン系の人たちの間で人気となりました。

しかも地元バンクーバーでは、約5年ほど空港の国際線ターミナルの外で屋台を出していた縁で空港運営会社からお声がかかり、空港内に実店舗を構えるまでに。カナダの他地域や海外からバンクーバーに来る人たちにも”JAPADOG”が広く知られるようになったのです。

バンクーバー国際空港内にある店舗。カナダ最大のコーヒーおよびファーストフードチェーン”Tim Hortons”と軒を連ねる。

 

日の丸背負い夢を売る

行き当たりばったりの人生のようですが、僕が日本風のホットドッグを作って売ろうとしたことには、明確な理由があります。「他の店の真似をしても大した売上が見込めない」と考えたことはもちろんですが、それだけではありません。

僕は遠い日本から、わざわざカナダにやって来ました。そんな僕が”街のホットドッグ屋さん”を経営していたら、何のためにカナダに来たのでしょうか。日本人である僕が異国に来た時「自分は日の丸を背負っているのだ」という思いにどうしても駆られてしまう。レベルこそ違えど、それはサッカーの日本代表が日の丸を背負って世界と戦うのに似ています。僕も”日の丸を背負って”カナダでビジネスをしたかったのです。

そしてもうひとつ。僕らはただホットドッグだけを売っているとは思っていません。単に商品を右から左に流しているのではなく、人々に”夢””幸せ””ワクワク”を提供しているのだ – この思いが、僕らの原動力になっているのです。

名刺に刻まれているスローガン「ホットドッグで夢と幸せとワクワクを世界に届ける」

今年(2023年)11月には、カナダ最大の都市トロントに出店します。そしてチャンスがあれば、以前夢破れたニューヨークにも再び挑戦し、それを弾みにして北米全土での展開を目指したい。もちろん故郷である日本での出店にも興味がありますし、さらには人々のエネルギーがあふれる東南アジアにも進出したいですね。

僕自身が夢の実現を目指しながら、世界中の人たちに”夢””幸せ””ワクワク”を伝えていきたいと思います。

JAPADOG本社オフィスにて

 

田村さんにとって、バンクーバーって何ですか?

”チャンスをくれた街”です。

何も持っていなかった僕に屋台のチャンスをくれたのはバンクーバーだし、この街の人たちに支えられて成長することができました。

バンクーバーは、人々も気候も穏やかだから、暮らしやすい。それに日系の各種団体も活発に活動しており、日系コミュニティーが成長してきています。だからもっとたくさんの日本人が来て、この街で夢を叶えてほしいですね。

 

田村さん関連リンク

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My Eyes Tokyo

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