為末大さん @ GTIC ① ハードラー前夜

取材&構成:徳橋功
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勝てるものを選ぶのは、勝つための最良の方法です。

 

「分野・国籍・年齢を超えてコミュニケーションを取り、新しい発想で具体的に一歩踏み出してみよう!!」を合い言葉に、元外資系大手インベストメント・バンカーで、現在はスタートアップ・アクセラレータの秋山智紀さんが率いる、様々な国籍や職業の人たちが集まる起業家集団「GTIC」(Global Techno Innovation Cafe)。起業家によるプレゼンと交流会からなるこの会に、今回初めて”オリンピアン(オリンピック出場者)”が現れました。「侍ハードラー」こと為末大さんです。

為末さんはメディアで頻繁にその姿を拝見するので、ご存知の方も多いと思います。お話がとても上手な方というイメージを、私たちも以前から持っておりました。しかしこの度、為末さんのお話をブラウン管ではなく生で伺い、そのロジカル・シンキングぶりに改めて驚きました。ビジネスマンのプレゼンでは必ず出てくる”数字”の話は一切ありませんでしたが、かと言って精神論を語るわけでもない。しかもさらに驚いたのは、会の参加者からのどんな質問に対しても、ロジカルに、そして誠実に答えられることでした。

このプレゼンテーションのテーマは『世界陸上選手権 銅メダルまでの軌跡 & 競技人生の中での葛藤』。前回のTokyo Otaku Modeに続き、プレゼン内容をほぼそのままお伝えします。ボリュームたっぷりですので、3回に分けてお送り致します。第1部「世界の壁〜メジャー競技での挫折からマイナー競技転向の決意」第2部「世界への険しい道のり」そして最後の第3部「世界で勝つということ」です。

そしてさらに、主催者であるGTIC代表・秋山智紀さんと為末さんがパネルディスカッションを行いました。世界で戦ってきた為末さんの経験と、グローバルに挑むビジネスマンやスタートアップが取るべき戦略との関連性や応用すべき点などについて、熱い議論を交わしました。
GTICのような勉強会に参加する起業家や起業家志望の人たちにとっては”グローバル市場への進出”や”大規模市場からニッチ市場への転向”に通じる珠玉のストーリーの数々。陸上の世界を、皆様のフィールドにそのまま当てはめてお読みください。*秋山さんとのパネルディスカッションはこちらから!

*為末大さん
2001年世界陸上エドモントン大会・2005年世界陸上ヘルシンキ大会の男子400mハードルにおいて銅メダル獲得の快挙を達成。またオリンピックには、2000年シドニー・2004年アテネ・2008年北京と、3大会連続出場。2001年世界陸上は、五輪・世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダル獲得の快挙。
現在はスポーツコメンテーター・タレント・指導者などで活動中。株式会社R.project取締役、一般社団法人「アスリートソサエティ」ボードメンバー。

*写真提供:


@泉ガーデンタワー(六本木一丁目)

 

スポーツで社会問題の解決めざす

初めまして、陸上競技をやっておりました、為末と申します。僕はスポーツのいろんな問題解決をやりたいな、と思っていまして、「スポーツ界の問題を解決しましょう」という声は結構挙がるのですが、「社会の問題をスポーツで解決しましょう」というのは、今日本ではそんなに無いんですね。具体的に海外の例を見ますと、少子高齢化で医療費が増える時代に、どうやって運動で医療費を増やさずに健康寿命を延ばすか、とか、スポーツを使って教育をどのようにするか、ということに取り組むベンチャーが結構立ち上がっています。

一方で日本は、ITベンチャー – 僕はそちらの方はあまり詳しくないのですが – が多いように思えますが、スポーツ分野のベンチャーはまだ少ないです。その分野の非営利団体は少しずつ増えていますが、まだ十分ではないように思えて、引退した選手のその次の人生について考える”セカンドキャリア”の問題も含めて、選手もしくはスポーツをどんどん変えていきたい、社会の問題をスポーツで何とかしたいという起業家および社会起業家を支援したいということを、自分の中に”夢”として持っています。それで秋山さんにご相談させていただき、このような場をいただいて、お話しさせていただくという経緯になっています。

今日は全部僕の競技人生の話になるのですが、もし皆さんのお仕事に少しでも参考になる点があるといいな、と思いながら話をしたいなと思っています。

 

スーパー中学生

子どもの頃から足は速かったのですが、なぜそれに気づいたかというと、僕が犬を飼っていたからです。犬の散歩は僕の役目だったのですが、ある日僕の方が犬よりも歩くのが速くなりました(笑)その頃から、自分は特殊な才能を持っているのではないかと思って、小学生時代に地元・広島の陸上クラブに入りました。最初は長距離選手でしたが、そのうちに短距離に転向。100メートルは13秒台で、県で2番目くらいのタイムで走っていました。

中学校に入学後も当然のように陸上を続ける選択をしました。中学3年生の時には100メートル・200メートル・400メートル・走り幅跳び・三種競技ABという6種目で全国1位になりました。僕以前も僕以後も含め、最も多い種目数で1位を獲ったのが僕でした。100メートルは10秒6で200メートルは21秒3というタイムで走っていました。今噂になっている17歳の桐生君(桐生祥秀さん)が日本人初の9秒台を出すかと言われていますが、彼の中学時代よりも速いです(笑)それにカール・ルイス – 今はもうウサイン・ボルトの時代ですが – 彼の15歳の時よりも僕の方が速かったという”スーパー中学生”でした・・・自分で言うのも変ですが。

ということで、陸上界ではかなり特異な存在というか、図抜けた存在でして、いろんな高校からオファーがありました。その中で僕は広島皆実高校というところに進むことを決めました。ちなみにミュージシャンの奥田民生さん吉田拓郎さんもOBとして名を連ねている高校です。

 

ケガ、そして完敗

高校に入って順調に進むかと思ったのですが、高校1年生の時に肉離れを起こし、その年の夏は棒に振りました。秋に入って復帰をし、全国大会に出場したら優勝したのですが、スピードは落ちていました。中学校時代の僕は図抜けていて、2位の選手とは10メートルくらいの差をつけて走ることができたのですが、その全国大会では1〜2メートル後ろに2位の選手が走っているような状況でした。もちろん短距離で1〜2メートルというのはそれなりの差ですが、中学生の時ほどには差をつけられなくなったことを感じました。ケガの影響もあったので「しょうがない、また来年以降頑張ろう」と思いました。

ところが高校2年の時も肉離れを起こしました。高1の時よりも深刻だったのでこの年は全く走れなくなり、棒に振りました。そして高校3年生の時に、インターハイに賭けることにしました。

インターハイというのは我々にとって非常に重要な大会で、野球で言う”甲子園”のようなものなのですが、単純に「勝ちたい」というだけでなく、その大会で何位に入るかにより、どんな大学に行けるかが決まるので、我々にとっては”センター試験”です。だから絶対インターハイに出て結果を出したいと思い、高校2年生の冬は他の陸上部員が練習を開始する1時間前から来て、練習が終わった後も1時間残ってトレーニングするという日々を過ごしました。

高校3年の時は広島県大会に出場しましたが、2位の選手を引き離せなくなりました。「おかしいな」と思いつつ一生懸命走ったのですが、どうしても引き離せない。2位との差が以前よりもどんどん詰まってきました。そしてついに、県大会の200メートル走で1年下の後輩に抜かれてしまいました。負けたことそのものについては「いつかそういう日が来るだろう」と思っていましたが、負け方が僅差ではなく、彼の数メートル後ろを走る形で負けたのです。惜敗とは決して言えず、むしろ”完敗”でした。

 

世界の壁

ショックを受け、帰宅後に保健体育の教科書などいろいろな本で調べました。そのうちにたどり着いた言葉が”早熟型”でした。中学校3年生の頃の私は身長170センチ、体重66キロでした。今の私と全く同じです。体の面で言うと、中学3年の頃にすでに完成されていた。そんな”超早熟型”であることが分かったのです。

そして、100メートルと200メートルの中学生チャンピオンがその後どうなったのかを調べました。実は、かつて中学生チャンピオンがオリンピックに出場した例はありません。僕の後に1人か2人は出場したような気がしますが、基本的に短距離選手が中学校でチャンピオンになるという場合は「才能がある」のではなく「才能の開花を先取りした」ということです。そういう選手が全国の中学生の中でチャンピオンになり、その後は他に追い抜かれるという運命にあります。私もその例に漏れなかった訳ですが、中学生の時は「これでカール・ルイスのレベルまで行って、日本人初の9秒台を出し、世界大会でメダルを獲るんだ」と思っていました。しかし、早くも高校生の段階でそれが難しいということを感じました。

それから種目を400メートルに変え、比較的うまく行きました。全国大会にも出場し、好成績を収め、人生で初めて世界大会に出ました。”世界ジュニア”という大会です。これが私の初めての海外渡航だったのですが、オーストラリアのシドニーで走り、400メートルで4位に入賞しました。

しかしトップのアメリカの選手には相当な差をつけられました。彼のインタビューを聞いたら、彼は「高校3年間陸上競技を続けて、非常に満足している。これからは本業のアメリカンフットボールに戻りたい」と言いました。そういう選手がゴロゴロしているのが世界の現実であり「400メートル競技で上手くいくと思ったのに、現実はこれか・・・」と思い、打ちひしがれました。

 

勝つためには手段を選ばず

レースが終わったあと、私はぼんやりと競技場を眺めていました。ちょうどハードルの競技が行われていました。ハードルの前でちょこちょこと足を合わせたり、ハードルの上をすごく飛んでしまったりと、あまり上手には見えない選手がいました。でも実際はその選手が1位になり、しかも予選かと思っていたら実は決勝で、彼が優勝したのです。

そういうレースを初めて見て「もしかしたらこの競技なら、足が速いだけではなく、もっと違う要素で勝てるかもしれない」という直感のようなものが働き、短距離をあきらめてハードルに転向しました。18歳の時ですので、その後16年間、ハードル選手として過ごすことになります。

当たり前の話ですが、勝てるものを選ぶのは勝つための最良の方法です。特にスポーツ選手は「最後まであきらめない者が勝つ」と思われている人が多いと思いますが、実際はどの選手もライバルを意識しながらポジショニングをしていくんですね。そしてどの選手も”天才”と呼ばれる人に必ず1度は出会います。本当の天才は”最後まであきらめずに”そのまま勝利へと突き進むのですが、そういう例は稀です。私もこれまで、短距離の末續くん(末續慎吾さん)など沢山の天才に出会いました。そんな時は、自分はどうすることもできない。天才には抗えません。

ただし「あきらめないで勝つ」以外に勝つ方法があります。例えば400メートルハードルは世界での選手人口が少なく、しかも黒人が少ない。陸上競技の黒人選手は、共に走ってみると分かるのですが、とてつもない存在です。でもハードルは白人選手がなぜか比較的好む競技です。それに日本でもハードル競技に関するデータの蓄積がありました。

そして、もうひとつ思ったことがあります。初めて参加した世界大会で、日本一の選手がバタバタ予選で負けて行くのを見て、初めてその時「日本一が一番ではなく、世界一が本当の一番なんだ。世界一に向かう途中に日本一があるんだ」と思いました。「世界大会で100メートル走で勝つ」というより「世界大会で勝ちたい」と思いが強くなりました。つまり、そのための手段は選ばない、ということです。

こうして私は、ハードル選手に転向しました。

 

ハードラーに転向した為末さん、この後も波瀾万丈が待ち受けていました。その物語の続きはこちらから!

 

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