アレクサンドラ・モンロー氏 国際交流基金賞 受賞記念講演会「アメリカにおける戦後・現代日本美術史の展開とグローバル美術史の興隆」
取材&構成:徳橋功
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学術、芸術その他の文化活動を通じて、国際相互理解の増進や国際友好親善の促進に、長年にわたり特に顕著な貢献があり、引き続き活動が期待される個人または団体を顕彰する「国際交流基金賞」。45回目を迎えた今年は、アレクサンドラ・モンロー氏(アメリカ)、フレデリック・L・ショット氏(アメリカ)、アンドレイ・べケシュ氏(スロベニア)が受賞しました。
その中からMy Eyes Tokyoは、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館にてアジア美術上級キュレーターおよびグローバル美術上級アドバイザーを務めるアレクサンドラ・モンロー氏と、作家・翻訳家・通訳者のフレデリック・L・ショット氏をご紹介。まずはアレクサンドラ・モンロー氏の講演のもようをお伝えいたします。
講演@東京芸術大学
ニューヨークで生まれ、メキシコと日本で育ったモンロー氏。上智大学で日本語および日本文化の学士号を取得し、学生時代には京都・大徳寺内の養徳院で座禅の修行を行いました。かように日本文化への造詣が深いモンロー氏が、アメリカ帰国後にそのキャリアをスタートさせた非営利組織“ジャパン・ソサエティー”において、ギャラリーキュレーターとして日本の現代アーティストたちと交流を深め、彼らの展覧会を行うようになりました。その頃を振り返り、モンロー氏は述べました。
「1980年代半ば、私が戦後日本の前衛美術の研究を始めた頃、アメリカの美術館で、このテーマの美術史的重要性や将来性を信じるキュレーターは、他にはいなかったと思います。それは、未知の領域でした。けれども、日本の戦後美術の歴史的正当性や新しい表現活力に対して、私には熱い信念がありました。また、新たな視点こそが、日本のアートや広くモダンアートの見方や研究の裾野を広げていくのだと確信していたのです」
1982年 『東京バズーカ』
モンロー氏の最初のプロジェクトは、現代美術家・篠原有司男の個展でした。
「半分裸の芸者がオートバイにまたがる巨大な彫刻は、オブジェやジェリービーンズが貼り付けられ、たいそう派手なものでした」
当時受けた衝撃をそのように述懐するも、モンロー氏はこのように分析しました。
「篠原の60年代初頭の絵画や彫刻に寄せ集められたイメージの数々、例えば、アメリカの国旗やデュシャンのチェス盤、ラウシェンバーグの作品『コカコーラ・プラン』などは、日本の敗戦がもたらした文化的喪失に抗うものだったのでしょう」
そしてこの篠原との出会いが、モンロー氏の行く道を決定付けました。
「私はその時、決意したのです。自分の今後の研究や展覧会は、戦後日本の前衛美術を専門にしよう、と。そして、その歴史を、より広い、国際的なモダニズムの文脈の中に位置づけてみよう、と」
1980年代半ば、コロンビア大学の日本美術研究所の学部長に“異端”と呼ばれたことも構わず、モンロー氏は戦いを続けました。
1989年 海外初の草間彌生回顧展
1994〜95年 『戦後日本の前衛美術:空へ叫び』
絵画、彫刻、パフォーマンス、ビデオ、フィルム、インスタレーション作品など、オノヨーコやナム・ジュン・パイク(韓国系アメリカ人の現代美術家)を含む100人を超える作家の200点余りの作品を紹介。
1998年、ジャパン・ソサエティ・ギャラリー館長に就任。
2000〜2003年 『YES オノ・ヨーコ』展
「世界で最も有名な無名アーティスト」と亡夫ジョン・レノンに言われたオノの意義を世に問う展覧会。3年にわたり北米、日本、韓国の13カ所の美術館を巡回し、100万人を超える観客を集めました。
2006年、グッゲンハイム美術館がアジアを専門とする学芸部門を設立。モンロー氏を専門のキュレーターに任命。
「私たちが意図したのは、西洋美術のカノン、つまり規範を攻撃することでも、打倒することでもなく、むしろ、欧米の規範に問題提起をすることでした」
以降、モンロー氏が企画または監修したアジア関連の展覧会は11。欧米の同規模の美術館と比べても群を抜く数字に。
2017年 『1989年以降の中国とアート:世界の劇場』
1989年から2008年の間に生み出された中国の現代アートと、その歴史の新しい解釈の試み。
「これまで中国を訪れるたびに、作家たちから必ずと言ってよいほど一つの質問を受けました。“『戦後日本の前衛美術:空へ叫び』展のような展覧会を、いつ、僕らのためにやってくれますか?”。私も“現代の中国美術”という、それ自体議論の多い概念について考え直す必要があると感じていました。この展覧会には、さまざまな要素が入り混じっていますが、参加作家に共通しているのは、それぞれに中国の政治的混乱や東対西という単一的な世界観とは一線を画した探求をしているという点でしょう」
そして最後に、氏がグッゲンハイム・アブダビの収蔵品として購入した、仏教の図像学を徹底的に援用して制作された村上隆の作品『とんがり君』(2003年)を紹介して締めくくりました。
「村上は、この作品の未来的な要素を強調して、次のように語っています。“さまざまな文化の多彩な側面を表現したいと思いました。いまだ存在しない文化にさえ興味があります”」
「今日、人類は空前絶後の変化を体験しています。ジェット時代の移動や、インターネットやソーシャルメディアによるラディカルな交信技術は、国境の概念がもはや廃れたものであることを教えてくれます。文化とは、もはや国ごとに区分されるものではなく、トランスナショナルな共同体なのでしょう。空間や時間の概念もまた、瞬間的なコミュニケーションが可能な宇宙では、あらたに構築しなおさなくてはなりません。しかし、こうしたグローバル社会にあっても、自分を省みるアイデンティティの問題や、社会的抵抗、差異をめぐる革新的なアートは力強く発言しています」
「そんな中で、次に来るものは何かという点で私が期待し、注目するのは、いつものことながら、日本なのです」
関連リンク
国際交流基金賞:https://www.jpf.go.jp/j/about/award/
国際交流基金:https://www.jpf.go.jp