城アンソニーさん(カナダ)

構成:徳橋功
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変化への挑戦 – 洗車ビジネスからソーシャルへ –

 

母国を遠く離れたでユニークな活動をしている外国人を迎えて英語で生の声を聞く「MET Morning Interview」。第5回目のゲストは、日本に住む外国人がお互いに就職や日本習、などの情報をシェアし合うコミュニティ”GaijinPot”を運営する城アンソニーさんです。

私たちがアンソニーさんに出会ったのは、ある日本人男性からの紹介でした。MET公開英語インタビュー3回目、パイレーツ・オブ・東京湾リーダーのマイク・スタッファーさんがゲストの回に、その方はあるカナダ人男性と共にお越し下さいました。それがアンソニーさんでした。

その後私たちは、まだ肌寒い今年2月に六本木のバーでミーティングをしました。そこで耳にしたことに、私たちは驚きました。これまで数多くの外国人に出会ってきたMy Eyes Tokyoですが、まさか”洗車”ビジネスで起業した人なんて、このアンソニーさん以外に出会ったことはありませんでした(それは日本人起業家を含めても、です)。彼はまだまだ若いビジネスパーソン。IT起業家として活躍する同世代が多くいる中で、当時20代前半だった彼は、他の人が選ばないような非常に泥臭い商売からスタートしたのです。

そんなアンソニーさんが今回の講演で何度も繰り返した言葉は”Change”、つまり”変化”でした。「変化を恐れるな」「変化はいずれ日常となる」「その変化はチャンスをもたらしてくれる」・・・起業、売却、の旅、そしてヘッドハンティングを経験したアンソニーさんのジェットコースターのような激動人生。会場に集まった起業家、起業志望者、そしてベンチャー企業で働く人たちなどが、熱心に耳を傾けていました。

*講演@ジープラス・メディア(港区)2014年3月29日
*英語版はこちらから!

 

「子どもよ、変化を生み出せ。でも大人はダメ!」の不思議

僕はこれまで、世界中のいろんな国に住んできました。にも住んでいたし、カナダにも住んでいました。カナダでは牛や馬、豚を放牧していました。

それに子ども時代には日本に3年間住んでいたんですよ。九州の大分県です。大分で通っていた学校では、全校生徒の中で僕と妹だけが外国人だったと思います。1970年代の話です。僕の父は町でただ一人の外国人でした。

いろんな場所を転々とすることが、子ども心にもとてもエキサイティングでした。なぜなら変化というものに我が身がさらされるからです。変化を拒む選択肢は、当時の僕にはありませんでした。

皆さんも、あらゆる種類の変化を経験します。そして皆さんの親御さんは、変化を自ら起こせと言うでしょう。なぜなら変化によって子どもはたくさんのことを学ぶからです。

でも僕らが大人になったらどうでしょう?途端に僕らは「物事を変えてはダメだ」と言われます。親は子どもに対して、何かにトライすることを止めようとする。子どもが小さい時には、親は子どもにいろんなものを試すよう勧めるのに、一体どのポイントで子どもに「そういうことはもう止めなさい!」と言うのでしょう?「あなたが今いるのはここ。残りの人生はこれをしなさい」と親は言うが、いったい何故なんでしょう?なぜ僕らは物事への熱意を失ってしまうのでしょう?

こういう疑問に、僕は子どもの頃にぶち当たりました。いつも世界を転々として、そのせいかいつも周りの子たちと違っていたからだと思います。

 

大企業の”つもり”で急成長

一家で世界を巡る旅は終わり、僕は生まれ故郷のカナダに戻りました。そしていわゆる”オート・ディテーリング”(Auto-detailing:直訳すると”車体に細かい装飾を施すこと”)ビジネスを始めました。”洗車業”をキレイに言うとこんな感じですね(笑)もし皆さんがこのビジネスに携わっていて、お客さんが高級車で乗り付けたら「はい、今から洗わせていただきますね!」と言ってはダメです。「今からこの車を”ディテール”させていただきます!」そう言えば「洗車する」だけよりもお金をいただくことができます(笑) 僕がこのビジネスを始めたのは、帰国したばかりで友達も人脈も無かったからです。僕はそれらが欲しかったし、それには洗車が手っ取り早いと考えました。そして、やがて僕はこのようなお店を持つようになりました。

”成功への鍵”は一体何か?それは「たとえ今は小さい会社でも、あたかも大企業のつもりで振る舞うこと」だと気づきました。

起業した時、僕はまだ20代前半でしたが、その当時の僕はその時何をしていたのかさえも分からなかったくらいです。なので僕は”フォーチュン500”と呼ばれる米大手企業に目を向け、それらを参考にしてビジネスのやり方を学ぼうと思いました。身の程知らずな戦略かもしれませんが、これが僕と競合相手の差別化につながりました。何故ならライバルたちはいつまでも”零細企業マインド”から脱皮できなかったからです。もちろん僕のビジネスだってまだまだ小さかったですよ。でも僕は決して自分のことを零細企業だなんて考えなかった。「もし僕がフォーチュン500に選ばれるような会社なら、何をやるだろう?」- そう考えていました。

でも考えただけでは答えは出ません。そこで僕は彼らのウェブサイトや、彼らが発行している雑誌を見ました。そして彼らのやっていることを”パクった”のです。例えば僕が自分のお店のパンフレットを作ろうと考えた時、どうやれば良いものが作れるか分からなかったので、某大手IT企業のサイトにアクセスしました。彼らは、きっとプロを雇ってウェブ上のグラフィックやデザイン、フォントを作っているはず。

だから僕はそれらをパクりました(笑)そうすると、僕自身の経験値も、デザインのプロたちと同じレベルまで上がるんですね。こうすることで、さらに同業他社との差を広げていきました。


アンソニーさんの会社のパンフレット(当時)

この戦略によって、僕のビジネスは短期間のうちに成長していきました。事業を立ち上げてから2年かそこらで、バンクーバー市内に4店舗を構えるようになりました。

この時期が僕にとってすごく楽しかったですね。だってすごく速く伸びていましたから。当時の僕は自分が何をやっているのかさえ分かりませんでしたが、でもそんなことは言えません。ちゃんと分かっている”フリ”をしていました(笑)「本当に成功するまで、成功者のように振る舞え」という言葉もあります。僕はいろんな場面でその言葉を実行しました。僕は、成功者”のように振る舞っている”ことを他の人に気づかれる前に、出来る限り早く成功者になりたいと思いました。その間にもビジネスは拡大し、僕らは波に乗っていました。急成長の段階ではあらゆる挑戦が待ち構えていますが、それを僕は楽しんでいました。とっても刺激的な日々だったし、当時の生活は僕にとってすごく心地よかったのです。

 

岐路に立つ

僕の事業に投資してくれていた人が顧客でいたのですが、その人が「カナダ中に事業拡大してみたくはないか?」と僕に聞きました。その当時で事業開始から7年、ビジネスは波に乗り、おかげでリッチな生活を送れていました。でも一方で少しそれが退屈だったのも事実です。なぜなら事業の成長フェーズはすでに終わっていたからです。もし皆さんの中で事業をしている方がいたらお分かりだと思いますが、事業で一番楽しいのは立ち上げの段階です。事業の運営よりも事業の立ち上げの方が面白いものです。

話を元に戻すと、僕にカナダ全国にビジネスを拡大するチャンスが舞い込んできました。さあどうするか・・・難しい決断でした。なぜなら事業を売却することも考えていたからです。それまでの数年間、他の道に行くことも視野に入れていました。自分の人生に大きな変化を起こしたかったのです。しかし実際は、僕は自分にとって何が”変化”なのかが分かりませんでした。皆さんの中にも同じようなご経験をされた方がきっといると思います。今していることがそこまで好きではない、だから別のことをしたい。でも次に何をやるべきかが分からない、だからそのまま今やっていることを続ける・・・もし次やるべきことが見えていたら、すぐにでもそれに取りかかれますよね。

僕の場合、起業した時はすごく小さい規模でした。それがすごく大きくなった。僕の脳の片方は論理的思考で「ビジネスを売るなんてどうかしてるよ!」と考える。次にやることも分かっていないのに、と。もしかしたら次の取り組みに失敗して、ビジネスそのものをあきらめなくてはいけなくなるかもしれない。僕の投資家たちは、なぜ僕が事業拡大に躊躇するのか理解できないようでした。彼らはカナダ中に一大チェーンを作りたがっていました。

僕は一度自分の頭を整理する必要がありました。「ビジネスを広げたいのか?それともビジネスを売りたいのか?」僕は両方の選択肢について考えました。

もし事業を拡大したら、もっとお金を稼ぐことができます。大企業と同じように多額の収益が会社に舞い込んできます。そして僕の未来はより安定が保証されたものになる – 実はこれが一番僕を悩ませたものでした。先ほども言ったように、もし僕が事業を売却したら、その後何をして良いか分かりませんでしたが、逆に事業を拡大したら、僕のやるべきことは見えています。それゆえにあまりエキサイティングではありませんが、少なくとも安定を確保できる。だけど、より多くの責任を負うことになります。

一方で、もし僕が事業を売却したら、一切の責任を負わずにすみます。スタッフのことも給与のことも僕には関係なくなります。ただしその代わり、収入の道は断たれます。そして安定も無くなります – この”安定”については、僕は本当に慎重に、じっくりと考えなくてはなりませんでした。僕のするべきことはほぼ終わったものの、安定した仕事や収入、給与を手放すのは辛い決断でした。

それに、ビジネスから離れてしまったら、学びの場も少なくなります。いろいろ考えてしまったが故に、僕はジャンプする勇気を持てずにいました。

 

激しく自問自答し決断へ

そこで僕がしたのは、自分自身に問いかけることでした。何故なら僕は”安定”にばかりとらわれていたからです。僕は自分に3つの質問をしました。

1. 僕は自分が身につけるべきだと思った全てのことを、このビジネスで学んだか?
答えは「YES」でした。小さい規模から始め、それを中規模のビジネスまで育てました。それを全国規模に拡大させることは、僕にとっては創業期の頃よりは挑戦しがいの無いもののように思えました。だから僕自身は、学ぶべきことは全て学んだと考えました。

2. これからの人生で、新たなチャンスを手にしたいか?
もちろん「YES」です。ただ僕は、今の仕事をしながら新たなチャンスを手に入れたいと思っていました。でもこんなことはそうそうできるものではありません。何かを手放すことで前に進むことだってあります。だからこそ、僕は大きな決断を迫られたのです。

3. 僕がそれまでに手にした成功を、再び手にできるか?
これが一番難しい問いでした。起業家ならば同じように難しく思うでしょう。もし皆さんが事業を始め、それが成功したなら、そのような成功を再び収められるか。でもそれは、もしかしたら偶然ラッキーだったり事業開始のミングが良かったからかもしれません。だから「この成功を再び手に出来るか?」と起業家なら常に考えます。

そこで目を向けたのが、僕の顧客や取引先でした。彼らは皆、成功者ばかりです。彼らも同じように事業がうまくいったりいかなかったりのサイクルを繰り返すはずです。何百万ドルの損失をし、再びそれらを取り戻したりと、アップダウンがあったと思います。彼らは落ちても再び這い上がる力が自分にあると分かっていたと思います。

僕が人生で最初に始めた事業が成功した。でも僕には実績もなく、築いてきたもない。もう一度事業を立ち上げて成功しろと言われたら、そうできるかどうか分からない。だからもしかしたら、この事業を手放したら最悪の事態に終わるかもしれない。だからこの質問は考えるのがすごく恐かったですね。

しかし最終的には、僕はこの事業をある投資会社に売却しました。売却を決めたのは、僕は新しいことに挑戦したいと思ったからです。確かに事業は成功していましたが、当時の僕は事業規模の拡大よりも、事業を維持させる方向へと傾いていました。僕にとっては、経営者でいるよりも新事業の立ち上げと拡大に挑む方がずっとやりがいがあると気づいたのです。

 

チャレンジは日常のささいなことから

僕が事業を売却して間もなく、僕はタイにバカンスに出かけました。事業に携わっていた10年間、僕は一度もまとまった休みを取っていなかったからです。いざ事業を売却すると決めたら、その年の5月に売り、そして9月にタイに行きました。なぜタイだったかと言うと、僕が20代の頃に周りの友人たちがヨーロッパやタイにバックパッカーとして旅行していたからです。僕は「ある程度成功したら、僕もバックパッカーになろう」と考えていました。そのようなわけで事業を売却後、バックパックを買ってバンコクのカオサンロードへと飛びました。

タイに行ったのは初めてでした。あらゆるものが僕がそれまで慣れ親しんでいたものとは違ったので、驚きの連続でした。こんなにもカナダと違うとは思いもよりませんでした。人々は路上や高速道路の下、気温摂氏36度の屋外で食事していました。タイでバックパックを経験した友人たちが教えてくれたことと、実際に僕が現地に住んで体験したこととは、全然違っていました。それまで独立独歩で生きてきた人間が、必要なものならどんな些細なものでも、他の人を頼って手に入れなければならない。そのようなマインドセットに切り替えるのが難しかったですね。随分遠くまで来てしまったと思ったし、僕が心地よいと思える空間からはほど遠い場所でした。僕は全く新しい環境でどう生活していくかを、手探りで学んでいきました。

バイクに乗ってどうやって仕事場に行くか、しかもノーヘルで、ドライバーは歩道を走っているんです!そんな日々の生活の中で感じたのは「大きなチャレンジは、大きなことではなく、日常のささいなことがもたらすのだ」ということでした。タイに来る前は、仕事や将来のことなど重大なことを懸念していました。でも実際は、ここからあそこにどうやって行くかとか、どうやって携帯電話を手に入れるか、みたいなささいなことこそが、僕にとってのチャレンジ、しかも大きなチャレンジでした。

そして僕がもうひとつ発見したこと・・・大きなことを成し遂げようが小さなことを達成しようが、人間の脳は同じように達成感を感じるということです。僕が目を背けたくなる重大なものを無理に乗り越えようとするのではなく、たくさんの小さなことを達成することで、僕は難題を乗り越えるトレーニングを積みました。

これは僕がタイに移ってから学んだ非常に重要なことでした。僕は”自分が出来るとは思っていなかったことができる”ことを学びました。なので日常のささいなことをおざなりにしないことをお勧めします。重大なことばかりに気を取られることはないのです。

 

変化への恐怖心を吹き飛ばすもの

そしてタイでの出来事が僕に教えてくれたのが”リラックスすること”、そして”柔軟でいること”の大切さでした。僕が経営者だった頃、僕は正確さを重視していましたし、事業での効率性の向上に情熱を注いでいました。事業を効率よく回していくことが全てで、それゆえに柔軟さに欠けていました。

でも僕はタイで”柔軟さが持つ力”を学びました。さらにその柔軟さが”変化への恐怖心をも吹き飛ばしてくれる”ということを教えてくれました。柔軟な心を持っていさえすれば、何が起きようともそれに柔軟に対応できるし、何がこの先起きるかについて心配せずに済みます。変化を起こすことは皆さんもできますが、ひとたび将来成功するか失敗するかを考えてしまうと、次に行くことを躊躇してしまうものです。でも気持ちが柔軟で、どんな結果が待っていようと気にしないという思いがあれば、次の行動に移せるし、やがては変化への恐怖心を克服できるでしょう。これがタイで学んだとても重要なことでした。

1年ちょっとのタイでの生活の後、僕はここを出たいと思いました。それは、再び変化が欲しくなったからです。だから僕はドイツに行きました。ずっと前からヨーロッパに住んでみたくて、車好きとして選んだのがドイツでした。ドイツには1年住み、そこを拠点にしてヨーロッパを回りました。そのうちに、僕の習慣が変わったり、あるいは捨て去った習慣もあります。それはほぼ毎日我が身に起こる変化に身を委ねていたからでしょう。

 

母が生まれた国での挑戦

そして2011年、僕は日本に来ました。その背景にあったのは、自分の”血”でした。母が日本人なんです。それに僕は人生の大半を欧米で過ごしてきたから、日本でも生活してみたいと思っていました。

日本に誰も伝手がいないにも関わらず、僕は日本に来ました。だから日本でも、最初の数週間で数多くのチャレンジを経験しました。例えば部屋を借りる時、不動産屋さんから「仕事には就いていますか?」と聞かれ「いいえ」と答えると「え、それ本当ですか?」と言われる。仕事はもちろん必要でしたが、それよりも先にアパートが僕には必要でした。

日本では誰も知っている人がいなかったから、とにかく人に会おうと思いました。それで始めたのが”Tokyo Podcast”というポッドキャスト配信の番組でした。僕がバンクーバーで洗車業を始めたのと、ほぼ同じ理由ですね(笑)これは毎週配信する英語のポッドキャスト番組で、日本での生活や仕事についてゲストにインタビューする番組です。この番組をやっていて思ったのは、人は自分のやっていることを世間に伝えたがっているということでした。だから僕は人にその機会を提供し、その代わりに彼らは僕に連絡先をくれたり、日本で生活する術を僕に教えてくれたりしました。お互いに機会を作ってそれを提供し合ったのです。

僕の番組は人気でした。その理由はきっと、さっきもお伝えしたと思いますが、番組を始めた頃から、この番組を人気番組のつもりで放送していたからだと思います。日本に多くあるポッドキャストの番組は、だいたい外国人が作っていて、リビングでしゃべり合って、しかもその内容が”どの電車も混んでいる””日本は清潔だ””日本人はみんな礼儀正しい”みたいなものでしたから(笑)それで話のネタが尽きれば番組は終わりでした。だけど自分は番組制作のプロだという意識で臨みました。小さな番組だけど、人気の番組と同じように作りたかった。だから毎週新しいトピックを話すこと、そして毎週違うゲストを紹介することを自らに課しました。だから僕の番組は人気だったのです。

僕が驚いたのは、意外にも僕の番組が日本人に人気だったことです。全く日本人に受けようと意識していなかったのに、です。それでもリスナーの半数は日本人でした。彼らはやがて、僕が日本語の書類に頭を悩ませている時に、力になってくれました。

 

挑戦は新たな挑戦を生む

”Tokyo Podcast”を立ち上げてから1年後、僕はある人から呼ばれました。ピーター・ウィルソンさん、皆さんが今いる”ジープラス・メディア”の社長です。僕は彼から”GaijinPot“という、日本で暮らす外国人のための情報サイトを任せたいというオファーを受けました。彼らは僕のTokyo Podcastでの実績を見ていたのです。僕はリスナーをゼロから増やし、外国人と日本人の双方に大きなインパクトを与えましたが、それと同じことを、僕がGaijinPotでもできるかを彼らは聞いてきました。

そのようなわけで、僕は今GaijinPotで楽しく仕事をしています。サイトを大きくし、新しいコンテンツを日々作っています。そしてサイトをリニューアルし、ソーシャルメディアとしての機能を強化させています。僕がGaijinPotに加わった頃のFacebookページの「いいね!」の数は9,000だったのが、今では10万に達しています。ツイッターのフォロワー数は3,000から1万に伸びました。しかもユーザーには日本人もおり、外国人と日本人が程よく交わっています。このようなコミュニティを、僕らはGaijinPotを通じて作っているところです。

さらにGaijinPotのYouTubeチャンネルも作りました。映像制作には、僕はすごく情熱を傾けています。楽しんで映像を作ったり、日本で今起きていることを世界中にシェアし、今では合計100万回もの再生回数を誇っています。日本中を旅し、僕が見たものを映像でシェアしてきました。オフィスに座っているのが嫌な性分なので(笑)こういう機会があるのはすごく嬉しいですね。

 

重大な決断は少しも”重大”ではない

バンクーバーでの日々を思い返してみると、今では「よくあんなことができたな」と思います。今の自分からは違和感を感じるくらいです。その頃の僕は先が見えない不確かさを楽しんでいました。でもそれが僕にとっての”普通”になり、今ではそれが僕のライフスタイルになりました。

僕が過去に自問自答した「僕は自分が望んでいたライフスタイルを手に入れたか?」という問いには、間違いなく「YES」と言えます。どんなに先が見えなくても、どんなに新しいことに出会おうとも「それが僕の人生さ」と言える。だから僕はどこの国に行っても生活してチャンスを手にして、事業を興せるという自信があります。

僕が洗車事業を売却した時を振り返れば、その当時はすごく重大な決断を下したと思っていました。でも今はそうは思いません。これまで僕がお話してきたことは、この決断が無ければ全て起こらなかったことでした。事業売却は、今ではもちろん正しい決断だったと言えます。

だからここにいる皆さんにお伝えしたいのは、3つのことを考えてくださいということです。「僕は自分が身につけるべきだと思った全てのことを、このビジネスで学んだか?」「これからの人生で、新たなチャンスを手にしたいか?」「僕がそれまでに手にした成功を、再び手にできるか?」そして皆さんの人生を変えていく。やがて5年や7年も経てば、それは重大な決断だったかもしれないけど、でも実は重大ではなかったということに気づくと思います。僕は、素晴らしい人生を自分自身で作ってきました。

だから、皆さんのしたいままに変化を起こしましょう。そして新たなチャンスを作っていきましょう。それは皆さんのためだけでなく、他の人たちのためにもです。他の人たちにチャンスを提供すれば、やがては皆さんに倍返しでチャンスが巡ってくるのですから!

 

アンソニーさん関連リンク

GaijinPot: http://gaijinpot.com/ja/
ジープラス・メディア(”GaijinPot”運営会社):http://www.gplusmedia.com/
Tokyo Podcast:http://www.tokyo-podcast.com/(英語)

 

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