門田瑠衣子さん & PLAS
インタビュー&構成:徳橋功
ご意見・ご感想は itokuhashi@myeyestokyo.com までお願いします。
Ruiko Monda
エイズ孤児支援NGO代表
この世界に生きる全ての人に価値があると思います。
皆さんは「エイズ孤児」をご存知でしょうか。私たちはほとんど知りませんでしたが、”片親ないし両親をエイズで失った18歳未満の子ども”を指すそうです。今回は、そんな子どもたちにとっての優しいお姉さん的存在、門田瑠衣子さんをご紹介します。
門田さんが代表を務める「エイズ孤児支援NGO・PLAS(Positive Living through AIDS orphan Support)」によれば、エイズ孤児たちは彼らの祖父母が引き取るケースが多いのですが、祖父母が高齢のために働けず、子どもが働くことを強いられることも少なくないそうです。また地域住民に引き取られたエイズ孤児は、引き取り先で差別を受けたり労働を強いられたりして、その結果教育を受けられなくなってしまうケースもあるとのことです。
私たちは、エイズ罹患者がアフリカに多いということまでは知っていました。しかし恥ずかしいことに、その子どもの世代にまでは全くと言って良いほど思いをめぐらせてはいませんでした。
そんな私たちが門田さんに初めてお会いしたのは今年(2012年)9月。天王洲にある「サムライ・スタートアップ・アイランド」にて行われた、人気ブロガー・イケダハヤトさん主催のトークイベント「社会変革とソーシャルメディア」でした。Facebookなどのソーシャルメディアを、イケダさんのアドバイスのもとに上手に活用し、エイズ孤児という日本人にとってあまり馴染みの無いものを伝えていく努力を絶えず続けて来られたことを知りました。
しかし現状では、2009年現在で全世界に1660万人ものエイズ孤児がいると言われており(詳しくはこちら)決して小さい問題ではありません。 非常に大きな問題なんだけど、日本人の日常から遠い世界の現実。門田さんはいかにして、我が事のようにその現実と対峙するようになったのかをお聞きしました。
*インタビュー@目黒
*英語版はこちらから!
写真提供:エイズ孤児支援NGO・PLAS
なぜバナナは安い?
私が海外に目を向け始めたのは、大学2〜3年生の頃でした。将来はカウンセラーになりたいと思い、大学では心理学を専攻していましたが、一般教養として平和学を履修しました。その講義で「私たちが普段食べているものや着ているものは途上国から届いている」という事実を知らされました。私たちの日常にあふれるすごく安い商品は、低賃金で働いている人や子どもたちの手で作られているということを、初めて知りました。それがすごくショックでした。それで国際協力の分野に興味を持ち始めたんです。
その講義で例として挙げていたのが、フィリピン産のバナナでした。私たちのお父さんやお母さんの世代はバナナは高級品でした。それが今では、スーパーに行けば一房100円くらいで買えますよね。それはまさに低賃金労働や児童労働という裏があったんです。
それ以前は、海外とは全く無縁の生活でした。パスポートすら持っていませんでしたから、1回も外国に行ったことがありませんでした。でもその話を聞いて、私はすぐに”フィリピン””ボランティア”というキーワードで検索しました。
スモーキーマウンテンの子どもたち
インターネットで1番目に表示された、フィリピンの孤児やストリートチルドレンなどの支援を行う「ACTION」というNGOを通じて、私はフィリピンに行きました。そして他の参加者とフィリピンの田舎にある孤児院に3週間寝泊まりして、孤児院内の幼稚園建設のお手伝いをしたり、子どもたちと遊んだりしました。
そこではフィリピンの貧困層の子どもたちの現状を目の当たりにしました。「スモーキーマウンテン」と呼ばれるごみの山のそばには掘ったて小屋がいくつも建てられてスラムが形成され、ごみ山から捨てられたプラスチック製品や缶などを拾っては売って生活している彼らの姿に衝撃を受けました。
でも一方で、良い意味での”裏切り”がありました。フィリピンに行く前には「きっと孤児院の子どもたちは暗くて、私たちにも打ち解けてくれないんだろうな」と思っていたんですが、彼らはとても元気で明るかったんです。そんな彼らがかわいくて「また会いたいな」って思いました。
初めての海外でそのような体験をしたため、途上国支援への関心が一気に高まりました。それで国際関係の本をたくさん読みました。中でも勝俣誠さんという方のアフリカ研究の本や論文に感銘を受け、勝俣先生が教鞭を取られている明治学院大学大学院に進みました。
エイズ孤児との出会い
大学院1年の終わり頃、勝俣先生の講義に刺激を受けて、アフリカに行こうと思いました。そこで私は、英語が通じること、ボランティア内容や期間が自分の希望に近いことからケニアを選び、現地のケニア人が運営するNGOに約1ヶ月間ボランティアに行きました。
その時はボランティア先のNGOで主に病院のお手伝いをしました。期限切れの薬と期限がまだ切れていない薬を仕分けたり、お医者さんの訪問診療のカバン持ちをしたりしました。
私が行ったのはケニアの小さな島で、お医者さんが一人しかいませんでした。しかしその彼女の診療を拒否する人も多くいました。その人たちは西洋医学を信用しておらず、代わりに呪術や黒魔術のようなもので病気やケガを治したいと言っていました。
しかし、その島にはHIVに感染している人たちがたくさんいました。でも彼らは診療を受けようとしなかったり、中には外になかなか出て来ない人もいました。その理由をお医者さんに聞くと、HIVに感染していることが島でバレたら村八分にされてしまうから、ということでした。また、感染の事実を知るのが恐くてHIVの検査を受けないようにしていたり、自分がHIV陽性者であることを信じたくないから診療を受けないという人もいました。つまり、一言で言えばみんな差別を受けるのが恐いんです。
そのような事実を目の当たりにし、すっきりしない気持ちを抱えながら日本に帰国しました。でもエイズのことがどうしても気になって頭から離れなかったので、大学院2年の夏休みに再びケニアに行きました。今度は首都ナイロビに赴き、NGOスタッフとエイズ関連施設や孤児院を訪ねました。その時、私はエイズ孤児に初めて出会ったんです。
団体立ち上げ
ナイロビではエイズ孤児にたくさん出会いました。私は元々子どもに関心があったし、大人のHIV陽性者にはすでにたくさんの団体が支援していました。一方で、その大人たちが亡くなった後に孤児となった子どもたちへの支援は、まだ十分でなかったのです。
帰国後、私は加藤琢真という男性と知り合いました。私をケニアに派遣して下さった「NICE」という国際ボランティアNGOを通じて、彼もアフリカに行って現地のエイズに関する状況を見たそうです。それで彼が「エイズのことについて皆で話そう!」とメールで呼びかけました。実際に集まった人たちは、活動していた地域はガーナやケニア、ウガンダ、マレーシアなどバラバラでした。皆がHIVやエイズ孤児について問題意識を持っており、そのうちの7人が「彼らのために行動しよう!」と立ち上がりました。
特に加藤が活動していたウガンダでは、エイズ孤児が通っている小学校から「私たちは支援を必要としている」と直接言われたそうです。そこで私たちは「それなら、その小学校の支援をしたらどうか?」と考えました。そのために団体を立ち上げ、一番最初の活動をウガンダの小学校支援にしようと決めました。
そして私たちはPLASを立ち上げました。大学院2年の12月、私が初めてエイズ孤児に出会ってから約3ヶ月後のことでした。最初私は事務局長で、代表はミーティングを呼びかけた加藤でした(*門田さんの代表就任は2009年)。
始めの一歩は学校改修
ウガンダの小学校の支援方法として、当初私たちはお金を送ることを考えていました。ちょうどその小学校が音楽教育に熱心で、楽器を演奏できる子どもたちがたくさんいると聞きました。「それなら子どもたちの演奏を収録したCDを1000円くらいで日本で販売して、その売上を小学校に届けよう!」というアイデアが出ました。
しかし実際に彼らの演奏を収録したCDを聴いたら、販売にはとてもおぼつかないクオリティでした。彼らは「すごくいいよ!」と言って送ってくれたんですが・・・でも、このような価値観の相違によるコミュニケーションのズレがあるままでは、支援が上手くいくか分からないと思い、現地に行くことにしました。それが2006年1月、PLASを立ち上げてから1ヶ月後でした。
とはいえ全員が行くのではなく、まずは数人による現地調査から始めました。それで分かったのが、彼らが本当に必要としているのはお金ではなく、環境の改善でした。雨が降ったら教室の天井や床、そして壁のすき間からも雨水が入り込んでくる状態でした。なので安心して勉強ができる校舎を作ることが第一だということで、学校側と私たちとで合意しました。
その後、日本からボランティアを派遣して小学校の会計を指導したり、大工さんに改修費用の見積もりを取ってもらったりしました。そして2006年夏、ウガンダでの小学校改修プロジェクトが始まりました。人手と資金をどうしようか考えていましたが、NICEさんにご協力いただいて20人近くのボランティアの方々にウガンダまで来ていただき、しかも参加費をいただいてそれをそのまま資材費に回しました。ウガンダ人のボランティアも手伝ってくれたおかげで、着工から約3ヶ月後に改修が完了しました。
脅す人々
このように書くと、改修作業がスムーズに進んだと思われるかもしれませんが、実はややこしい問題が生じたんです。
エイズ孤児が通う小学校を改修することについて、学校側や保護者の方々は喜んで下さいました。しかし一方で、学校なんか作ってほしくないという人もいたんです。私たちはそういう人から言葉で直接脅しを受けたり、「今すぐ作業をやめないと、全て撤去させる」と言われたりしました。しかも私たちが雇った大工さんたちは、私たちが外国人ということで、法外な賃金を要求しました。
でも私たちが改修期間中、地元の小学校の、床が泥だらけの教室で寝泊まりし、火を起こすところから自炊をして生活をしているのを見たり、また学校側が彼らと話し合いを重ねるうちに、それまで私たちの取り組みを良く思っていなかった人たちの態度が軟化していきました。
しかも大工さんたちも変わりました。改修工事が終わりに近づいた頃、棟梁が「俺たちは明日から給料はいらない」と言いました。「エイズ孤児を含めた地域の子どもたちの小学校のために、日本人がここまで力を尽くしてくれている。それなら俺たちも自分たちの出来ることを精一杯やるべきだ」と。そして彼は、他の若い大工さんを説得し始めたんです。この学校が必要な理由を伝えて「俺たちも最後くらいはボランティアで働こう」と彼らに伝えたんです。それに応えるように彼らも「明日からは僕らもボランティアとして誇りを持って作業に臨みたい」と言ってくれました。そして最後の約10日間、彼らは無償で作業をしてくれました。
改修工事が完了した時は「やっと終わった」という思いでした。よくあるような達成感のようなものは、実はそれほどありませんでした。ただ「大変だった・・・こんな大変なことを、これからも続けていけるだろうか」と思うだけでした。
小学校をプロデュース
その後も、その学校への支援は続けました。ただし、彼らが自立するための支援ですので、コンサルティングに近いと思います。
彼らが健全な経営をし、やがてはPLASから1円ももらわずに自分たちで運営していけるようにしようということで、再び会計指導を始めました。こう言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、要は帳簿を付ける習慣をつけることと、帳簿の付け方を教えました。
また学校運営にかかる経費についても、エイズ孤児は無料で通え、それ以外の子どもたちからは学費をいただいて、その学費で運営するという体制を作りました。またその学費についても、学校運営に必要なお金を算出し、そこから逆算して設定するところまで指導しました。
さらに、お金を払ってでもこの学校に子どもを通わせたいと親御さんたちに思ってもらうために、プロモーションに力を入れました。その学校は音楽教育に力を入れていたこともあり、生徒さんの歌と踊りはすごく上手でした。なのでそれまで身内だけで行っていた学芸会を、地域の人たちに見に来てもらえるように大きなホールを借りて行うよう提案しました。それで実際にたくさんの人が学芸会を見に来てくれ、入学希望者が殺到するようになりました。それを繰り返すうちに、最初は80人くらいだった生徒数が、200人くらいにまで増え、自分たちだけで学校運営ができるようになったんです。
援助ではなく自立を
そこまで持っていくのに約2年半かかりましたが、PLASからはそれほど多額の資金援助はしていません。ただし、例外がありました。 エイズ孤児はその小学校に無償で通っていたんですが、その子を引き取った人たちが、その子を置いて夜逃げしてしまうことがありました。彼らは自分の子どもは連れて行くけど、エイズ孤児だけは置き去りで、孤児はもぬけの殻となった家を前にただ途方に暮れる、というケースが起きました。その場合はPLASから生活費を提供し、子どもを学校に住まわせました。同じように身寄りが全くなくて学校に住んでいた孤児たちは、その学校に10人くらいいて、先生が住み込みで世話をしていました。
現在、この学校は自己資金で孤児を育てるまでになっています。同じように、いずれは孤児を預かる学校全てが、独自にその資金を捻出できるまでになってほしいと思っています。なぜなら私たちが支援の対象としているエイズ孤児は、ウガンダだけでも100万人いるからです。1つの小学校のエイズ孤児の支援に10年も20年もかけてはいられません。
また資金は、アフリカの大人たちへのエイズ予防啓蒙活動にも充てられています。私たちはこれまでに、約1万人の大人たちにエイズ予防を呼びかけてきました。理由は単純で、HIV/エイズを予防すればエイズ孤児はこれ以上は出てこないからです。また、この啓蒙活動はエイズ孤児のことを正しく理解してもらうための活動でもあります。ただし、人々の誤解や偏見を取り除くのは難しく、地道に、時間をかけて取り組む必要があります。
もうすぐ、ウガンダで新しい事業を開始します。HIV陽性者の自助団体のみなさんと養鶏事業を立ち上げ、それで得た利益をエイズ孤児支援に充てるというプロジェクトです。このように私たちの事業を拡大して、より多くの孤児たちを支援しなくてはなりません。また、エイズ孤児を置き去りにしないような経済基盤を築くために、例えば養鶏の仕方を一般の人たちにも教えて、地域そのものを豊かにしていく必要もあると思います。
私たちの活動の目的は「エイズ孤児への援助」ではなく「エイズ孤児とその保護者の自立を促すこと」です。ゆくゆくはアフリカの人たちが自立し、私たちが今行っている支援活動を、彼らが独自に行うような体制に持っていきたい。それが私たちの目標ですね。
世界エイズデー2012 チャリティーパーティー(11月25日@イデアインターナショナル)
門田さんが理想とする世界は、どんな世界ですか?
エイズ孤児も普通の子どもと同じように生きていける世界が、一番良いと私は思います。
エイズ孤児の中には、親が死に、いろんな人から白い目で見られるうちに、自分の価値を自分で下げてしまう子がいます。「自分なんて生まれてこなければ良かったのかな」とか「自分がすごく悪い子だったから、親は死んだし悪いことがたくさん起きるんだ。自分には生きていく価値なんて無いんじゃないか」って。そのような気持ちに、多くのエイズ孤児たちが苛まれるそうです。
でも彼らには「自分にも価値があるんだ!」「自分も社会に貢献していけるんだ!」という自信を持ってほしいです。
この世界に生きる全ての人たちに価値があると、私は思います。だから全ての人や全ての子どもが、そのような自信を持ってくれたらいいなと思います。そして「自分には価値があるんだ!」と一人一人が思える社会を作っていけたらいいなと思います。
門田さん関連リンク
PLAS公式サイト:http://www.plas-aids.org/
関連記事
山口絵理子さん(バッグデザイナー/経営者)
関根健次さん(社会起業家)
榊原健太郎さん(インキュベーター)