五ノ井リザリンさん(フィリピン)
インタビュー&構成:徳橋功
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(English article here)
Rizalyn Pascual Gonoi
監理団体勤務
私の人生は”恩贈り”。幼少期に先生から受けた恩を、日本の子どもたちや外国から来た若者たちに贈ってきたのだと思います。
今から約10年前、私たちMy Eyes Tokyo(MET)は都内のあるコワーキングスペースで英語朝活や、プレゼンテーションイベントを数多く実施させていただきました。その時に数少ない英語スピーカーとして、また英語MCとして助けていただいた人に、今年(2023年)の秋に再会しました。それが今回ご紹介する五ノ井リザリンさんです。
私たちが親しみを込めて”リザさん”と呼ぶ彼女は、MET編集長である徳橋が企画に携わった『多文化トークセッション~心の壁とマルチカルチャーな日本~』(主催:Global Peace Foundation Japan)に参加。しばらくお会いしていなかったことによる時間と距離の開きが一気に縮まるのを感じ、満を持してインタビューをお願いしました。
かつて、たわいもない話ばかりして笑い合っていたリザさんと徳橋。ご自身のこれまでの、涙なしでは聞けないエピソードの数々も、リザさんは明るく笑い飛ばしながら語ってくれました。
*インタビュー@茨城県古河市
後に大物YouTuberに成長した人も参加した、MET企画のプレゼンイベント『Mechakucha Night』にて。左がリザさん、右はMET編集長の徳橋。
2013年7月
技能実習生を守る
私は今、茨城県内にある監理団体で仕事をしています。監理団体は、人材派遣会社に近いですね。日本企業の要望を聞き、送出機関、つまり日本で働くことを希望する人たちを現地から送り出す機関にそれを伝え、彼らを日本に受け入れて日本企業に派遣します。私はそこで、外国人が日本で仕事ができるようにするための事務手続きを担当。私の会社が請け負っているのは、主にフィリピンとミャンマーからの技能実習生の受け入れで、クライアントは主に惣菜や加工食品などを作る食品加工会社です。
実習生は来日前に2ヶ月間日本語を勉強し、来日後も1ヶ月間日本語を学んでから企業に派遣されます。実習生たちは働きながら学び、他の日本人スタッフと同等の賃金を得ます。もし彼らにきちんと給料が支払われていなかったら、私は企業に注意します。さらに実習生たちの日本語能力に疑問を持つようなら、私は彼らに聞きます。「あなたはたった数か月の英語学習でペラペラ話せるようになりますか?」と(笑)
私は2019年以来、この仕事に4年間就いていますが、2020年からの3年間はコロナ禍で受け入れがストップ。でもコロナ前の1年間はビザ申請などの事務手続きからタガログ語、英語、日本語での通訳、実習生の管理、企業や送出機関などとのやり取りまで全て私一人で担当していたし、時には実習生のために病院での医療通訳までやったことも。だから短い間にたくさん経験を積むことができたと思います。
私たちのクライアントの1つで、従業員約500人の会社がありますが、そのうち200~300人がフィリピン人で占められているほど。彼らは実習生ではなく、パートさんや社員さんですが、性格が明るいし、お願いした仕事はきちんとやるため、日本企業からは外国人、特にフィリピン人は大変人気です。会社にもフィリピンから来た人たちにも喜んでもらえるこの仕事に、私はやり甲斐を感じています。
お弁当に落ちた涙
私が日本に来たのは、小学校4年生の頃。それまではフィリピンの首都マニラの郊外にあるブラカン州で育ちました。父は私の幼少時代に亡くなり、母は大阪で仕事をしていました。母が日本人男性と結婚した後、それまでおばあちゃんに育てられていた一人っ子の私を大阪に呼び寄せ、私はその男性の養子に。その後、男性と母との間に子どもが生まれ、私の異父弟となりました。
私は大阪市内の公立小学校に通い始めました。当時は全く日本語が出来ないし、その上私は色黒で髪の毛も縮れていたから、クラスメイトから笑われました。最初はその笑いが”私への親しみ”だと思っていましたが、やがて私を笑い者にしていただけだったのだと気づきました。遠足でも修学旅行でも、クラスの輪の中に入れてもらえず、私は一人で歩き、母が作ってくれたお弁当を一人で食べていました。「何で私は日本にいるの?」と、そのお弁当に涙が落ちました。その疑問や怒りの矛先は、お母さんに向かっていたのです。
日本語がなかなか覚えられない。だからフィリピンに帰りたい – そう母に泣きついても、母は厳しい顔で「何を考えているの?」と怒るだけ。誰も理解してくれない、そんな状況に私は悲しくなりました。母はもちろん私に苦しい思いをさせたかったのではなく「辛い状況を乗り越えたら、きっと良いことがある」「頑張れ、強くなれ」という私への愛情だった。今は当時のお母さんの気持ちを理解しているし、そのおかげで私は強くなれたのだから、むしろ感謝しています。でも当時の幼い私には理解できず、ただ辛い現状が永遠に続くとしか思えませんでした。
19歳の母
でもラッキーなことに、私のクラスの担任の先生が英語を話せたのです。先生は授業の後、いつも私に「今日の授業、理解できた?」と聞いてくれました。私は放課後、泣きながらその先生からの補習授業を受けました。日本人の継父も、私に英和辞典や和英辞典、マンガなどを買ってくれて「これで勉強しなよ」と。いろんな人たちの助けを借りて、私は日本語スキルを身につけていきました。当時流行っていた『クレヨンしんちゃん』や『セーラームーン』などのアニメで覚えたセリフをクラスメイトの前で真似して、だんだん私に優しく声をかける子たちが増えてきた。フィリピンにいた頃の明るい性格が戻ってきたのです。
日本語も覚え、クラスの人気者になった私には、これからも楽しい生活が待っている – そう希望を抱いた中学2年生の頃、母はその男性と離婚。いろんな理由により、私はフィリピンに1人で帰ることになり、しかも現地に留まらなくてはなりませんでした。新しい場所、新しい環境で、ゼロから友達を作らなければならない。この時も母を恨みましたね(笑)
その後、高校を経て大学に入学。キャンパスライフを楽しむ一方、私は19歳で母親になったのです。
夏休みに、母や弟が当時住んでいた山梨県を訪ねました。その間、私は東京にいる叔母さんの家に泊まらせてもらいながらアルバイトをしましたが、そこで25歳年上の日本人男性に出会います。父を早くに亡くした私は、父親からの愛情に飢えていたのでしょう。その男性に亡き父の姿を見て、恋に落ちたのです。
英語教育の世界へ
その男性と結婚し、私たちは3人の娘に恵まれました。最初は東京に住んでいましたが、母の希望で家族全員で山梨へ。しかしビザの関係で私が日本とフィリピンを行き来する必要が生じ、彼と一緒にいられる時間が短かかった。そして私がようやく彼と日本で暮らせるようになった頃、彼と私との間に文化や年齢の差から来る価値観の違いが、私たちの暮らしに少なからず影響するようになり、たどり着いた結論が”離婚”。結婚してから5年後のことでした。
山梨に残された私は、3人の子どもを育てるために、居酒屋やバー、飲食店などで働きました。お蕎麦屋さんで蕎麦を打ったこともありましたね(笑)
やがてある人から「英語の先生をやってみない?ALT(Assistant Language Teacher:外国語指導助手)という仕事があるんだけど、リザに向いていると思うよ」と言われました。私はせっかく大学に通ったから、頭を使う仕事をしたいと考えていましたが、人に何かを教えたことが無かった私は、果たしてその仕事が務まるか自信が無かった。しかも日本の学校の先生のイメージは”真面目なプロフェッショナル”。その人たちのように、自分は上手く指導できるのだろうか・・・
そんな心配を抱きながらALT派遣会社の面接を受けたら、すんなり合格(笑)ニュースキャスターになりたくて1つ目の大学でマスコミュニケーションを学び、人と話をするのが好きだから2つ目の大学でツーリズムを学んだ。そんな私にとって、人の前に立って、人とコミュニケーションを取りながら何かを教える仕事はピッタリだと思いました。
「朝の仕事は何時から?」
しかし私は、離婚というネガティブな思い出のある山梨を出たかった。新しい場所で、新しいスタートを切りたかった。そんな私に派遣会社が勧めたのが都内にある学校でしたが、全くの未経験者が都内の、それもレベルの高い私立学校で教えることに恐れを抱き、断りました。そこで会社から茨城県那珂市にある公立の小・中学校を勧められ、私は行くことにしました。
私は山梨に住む母に娘たちを預け、単身で茨城へ。独り暮らし用の小さなアパートの一室に住みながら週に2~3校を周って指導をし、毎週末に山梨へ。茨城と山梨を往復するための高速道路代やガソリン代を稼ぐために、仕事が終わった後に家の近くの居酒屋でアルバイトをしました。
那珂市で1年間経験を積む一方、ある日ある学校の校長先生から「朝の仕事は何時からですか?」と、まるで私が夜の仕事をしているかのような、セクハラであり差別でもある言葉を投げかけられました。私が当時、明るい色のロングヘアだったこともその原因かもしれないと思い、すぐに髪の毛を黒く染めました。しかも同じ校長先生から飲みにまで誘われ、私は全力で拒否しました。
ネイティブじゃない だから頑張る!
ALTには他にアメリカなど英語圏から来た人もいました。その人たちと比べるからか、他の先生たちは私が英語のネイティブスピーカーでは無いことを感じていました。いくらフィリピンで幼稚園の頃から英語を学び、英語を身近に感じていたとしても、私たちの母国語はタガログ語。彼らから「この人はきちんと英語を教えられるのか」と不安がられました。実際にネイティブスピーカーと私とは、給与に大きな差があったのです。その実状を受け入れつつ、私は仕事の合間に英語教育のワークショップなどに参加して指導方法を学び、英語指導の資格も取得しました。
こうして自信をつけた私は、派遣会社に都内の学校での指導を申し出ました。しかしその時は都内での空きが無く、代わりに北海道のある自治体、そして茨城県古河市を提案されたのです。北海道は私にとって未知の場所だったので惹かれましたが、遠くまで子どもたちを連れて行くことに躊躇しました。しかも私だけ北海道に行ったら、山梨の子どもたちに簡単には会えなくなる。そこで私は派遣会社のスタッフさんに恐る恐る聞いたのです。「古河って、どこですか?」。
聞くと、古河は交通の便が良いのでどこへでもスムーズに行けるとのこと。私は古河を選びました。新しい場所でさらにALTの経験を積み、市の教育委員会から派遣会社に送られる報告書で良い評価をいただきました。しかも教育委員会の人たちが実際に私の授業を見た上で付けた評価も、性格の明るさや声のトーンなど多くの項目で10点満点中9~10点に到達。そこで古河市内の多くの学校からお声がかかり、さらに自信を付けていきました。
口コミで大人気講師に
やがて3人の娘たちを引き取る余裕が生まれ、彼女たちと古河で一緒に暮らすように。その頃、友人からある大手英会話スクールでの仕事を紹介され、ダブルワークを開始。ALTが終わった後、夕方からスクールで指導するようになりました。そのスクールは、講師が自宅で指導する形式を取っていましたが、私は当時もアパートに住んでいたので広い部屋が無く、キッチンでたった1人の生徒に教えていました。
しかし口コミで私の評判が広がり、自宅のキッチンでは収まりきらないほど生徒が増えたため、住んでいたアパートの前にあった古いビルの大家さんに相談。家賃の高さからほぼ部屋を借りることを諦めていた矢先、大家さんは「このビルはどの部屋も長い間使われていないから、英会話を教える場として使ってくれるなら、家賃を半額にします」と言ってくれました。そして指導を開始したところ、そこでも生徒が増え、やがて栃木県小山市や茨城県結城市でもクラスを開くことになったのです。生徒数も約120名に達し、同じフィリピン出身の副講師を雇う必要に迫られました。
しかしその状況は、コロナにより全て崩壊。生徒さんは教室に来られず、それにより休講も増えました。副講師もフィリピンに帰らなくてはならなくなり、結城や小山でのクラスを閉鎖することに。古河のスクールは最後まで残るも、生徒さんとの気持ちを通わせることが難しいリモートでの授業を強いられ、気力がだんだん落ちていたのです。
行く仕事 来る仕事
ちょうどその頃、ある日本人から「フィリピンに会社を作りたいから、通訳をお願いしたい」との相談を受けます。その人は、別の日本人と一緒に現地での会社設立を考えており、それが茨城県内の食品加工会社社長、後に私が現在勤務している監理団体の理事長となる人です。彼らと現地に飛び、1週間滞在しましたが、結局会社設立には至りませんでした。
もう彼らと会うことは無いだろう – しかしその2年後、今度は食品加工会社の社長から連絡が来ました。「フィリピンから人材を受け入れる事業を始めたい。だからリザさんに協力してほしい」。当時は英会話講師として順調に仕事をし、なおかつ小学校や中学校でも英語指導をしていたから、そのお申し出を断ったのです。
しかしその1年後、再び社長から連絡があり、聞かれました。「その仕事は、いつまでやるのですか?」。
その頃、私は気力も体力も限界を感じていました。2019年3月に日中のALTの仕事をすでに辞めていた私は、理事長と給与など勤務条件について話し合い、私は彼が立ち上げた監理団体の事務局長としてその翌月に入社。しばらくは夕方からの英会話スクール事業を並行して続けていましたが、先ほど言ったようにリモートでの授業が中心となったため、やる気が失せた私は生徒募集を止め、2020年、ついにスクールを閉鎖しました。
お互いが理解し合う場を作る
コロナ禍を耐え、技能実習生の受け入れを再開しました。ALTや英会話スクールでの仕事と共通すると思いますが、私は”面倒を見る”ことが好きなのでしょう。それに生徒さんから頼られることも多かった。特にフィリピンなど外国にルーツを持つ子どもたちからですね。
私が小学校の頃に出会った、私を救ってくれた担任の先生から言われたことを、今でも覚えています。「もし辛い状況にいる子どもを見たら、同じように助けてあげるんだよ」。この言葉と、今の仕事はぴったり重なっています。いえ、今の仕事だけでなく、これまでの仕事もそうだと思います。英語でのコミュニケーションに困っている人を助けたのは、日本語が理解できずに苦しんでいた頃にいただいた先生からの恩を、他の人に贈っていたのでしょう。まさに”Pay forward”、恩贈りですね。
日々の事務作業はとても大変ですが、その末に日本に来て仕事に就くことができた人たちから「私にチャンスをくれてありがとうございます」と感謝の言葉をいただきます。その瞬間が一番嬉しい。一方でそんな彼らに、私はよく言うのです。「感謝の気持ちはもちろん大事。でも日本にいるのなら、日本の文化やルールをしっかり学びなさい」と。それをしない人たちを企業に紹介して、何か変なことをやらかしてしまったら、私たちの団体の面目が潰れてしまいますから。
ここで経験を積んで、いつか私は自分の会社を立ち上げたい。恵まれない生活を強いられている若者たちが、世界中にはたくさんいます。その人たちが日本に来ることで、仕事に就くことができ、良いお給料を得られる仕組みを作りたい。その暁には、実習生の育成や派遣以外にも、日本の良さをフィリピンなど海外に伝え、フィリピン人の働きぶりを日本企業に伝えて、お互いがお互いを理解する。そんな場を作りたいですね。
リザさんにとって、日本って何ですか?
私にとって”2番目の家”ですね。
もちろん私の母国も大好き。でも私を強くしてくれたのは、ここ日本。私に様々なチャンスをくれたり、生き方を教えてくれたのは、日本の人たちです。だから生きていくのは日本でなきゃ嫌だ、とすら思っています。
これからもずっと日本で暮らしていきたいです。
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