中井ミリーさん(ブラジル)

インタビュー&構成:徳橋功
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Milly Nakai
マルチリンガル通訳・映像翻訳者

もし皆さんが長く暗いトンネルに入ってしまったら“自分にしかできないこと”を一生懸命考えてみてください。

2017年10月初旬 – 私たちは“国際コミュニケーションアーツ学院”(GCAI)さんが主催したパネルディスカッションにお邪魔しました。そのタイトル『海外への情報発信スキルで人生を変えた女性たち』が示す通り、起業家や華道家、通訳案内士などとして活躍する女性4人が、いかにして海外に発信しながら独自の活動の幅を広げていったのかを話し合いました。その1人に、ポルトガル語や日本語など4ヶ国語を駆使して世界中の声を日本に届ける通訳者・翻訳者の中井ミリーさんがいました。

中井さんはブラジル・サンパウロのご出身。2008年に来日後、映像翻訳の道に入り、その後通訳へと活躍の場を広げていきました。エンターテインメント・報道・スポーツ関連業務が中心で、ブラジルのネイマール選手やポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド選手などの世界的スーパースター来日時の通訳を務められています。

そんな中井さんが、4人のパネリストの中でも一際強く私たちの印象に残りました。それは中井さんがディスカッションの中で自分の人生を振り返る時、また将来の目標について語る時「私は“私の人生を生きたい!”という思いをずっと強く持ってきた」とハッキリとおっしゃっていたからです。あらゆる国籍の人たちのライフヒストリーに接してきた私たちMy Eyes Tokyoとして、ぜひお話をお聞きしてみたいと思いました。

ディスカッション後、私たちはおそるおそる中井さんにインタビューを打診。常にスーパースターの脇に立つ中井さんは、私たちからの依頼を心から喜んで下さいました。

*インタビュー@赤羽(東京都北区)

 

通訳は“黒子”

私の母国語であるポルトガル語の通訳者は、日本国内に少なからずいます。でもある人がおっしゃっていたのは「両方の言語のアウトプットを同じレベルでできる人が、特にエンターテインメント分野では少ない」ということでした。そのような事情もあり、幸いなことに私のような者が必要とされているのだと思います。

私はサッカーに関する通訳に携わることが多いですが、競技についての専門知識よりも、例えばネイマール選手や(クリスティアーノ・)ロナウド選手が試合の時に何を考えているのか、日本に来て何を感じたのかなど、より人間的な部分を伝えることが求められている気がします。さらに言えば、やんちゃっぽいネイマール選手とクールなロナウド選手では、1人称(“僕”“俺”“私”など)を使い分けていますし、日本語からポルトガル語に訳する際の言葉遣いも、相手によって使い分けています。

「世界的大スターたちの通訳で、緊張することは無いのですか?」と時々聞かれますが、通訳である私は、あくまで“黒子”。私の仕事は、彼らの肉声を日本のファンに届けること、そして日本人が彼らに聞きたいことを、彼らに分かりやすい言葉にして伝えることです。だからどんな大舞台でも、通訳に臨む時は肝が座り、通訳相手以外の声やその他の雑音が一切耳に入らなくなるほど集中します。どんなスター選手と一緒にテレビ番組に出演しようと、「私がここに呼ばれている理由は何?」という原点に立ち返ることで、平常心を保っているのです。


クリスティアーノ・ロナウド選手の来日イベントで通訳を務める中井さんの映像(2015年7月)

 

ブラジル人?日本人?

私が生まれ育ったのは、ブラジル最大の都市サンパウロ。日系人がたくさん住んでいるその街に、私の両親がそれぞれ福岡と熊本から渡り、やがて私が生まれました。

だから当然、家族との会話は日本語でした。その上日本語教室にも通っていたし、両親が日本から取り寄せていた日本語の百科事典や童話全集、幼児雑誌などを読むのもすごく好きでした。『8時だョ!全員集合』や、水野晴郎さんが解説をしていた『水曜ロードショー』など、日本のテレビ番組もビデオで観ていました。だから私にとっての日本は“外国ではない外国”でした。

そのような環境のおかげで、私はポルトガル語と日本語のバイリンガルとして育ちましたが、“バイリンガル”という存在には思わぬ落とし穴も。私は10代の半ば頃、“アイデンティティ・クライシス”に陥ったのです。具体的に説明すると、「私はブラジル人なのか、日本人なのか、どっちなんだろう?」と、その後10年間に渡って悩みました。そのせいで一時期、日本語が大嫌いになったことも。クライシスに陥っている間は自分を受け入れることなどできず、当時は自分に全く自信がありませんでした。

でもある日突然、気づきました。「“ブラジル人か、日本人か”ではない。私は“ブラジル人でもあり、日本人でもある”のだ」と。実際に私は、仕事に対しては日本人のような態度や精神で臨む一方、人生を楽しむ様はまさにラテン系。そう思えるようになってからは、心が軽くなりましたね。

 

ついに、祖国へ

私は大学入学と同時に社会に出ました。それはブラジルでは決して珍しくなく、日本のように働きながら大学に通うことが低く見られることはありません。私は子供の頃から抱いていた異文化への憧れからサンパウロの大学で英文学を専攻する一方、父の伝手で紙おむつを生産・販売していた台湾系の会社に入社し、社長秘書として4年間働きました。

大学卒業後は、自分の語学能力を活かせる場として、サンパウロにある日系自動車・オートバイメーカーのブラジル法人に入社し、四輪(自動車)の輸出入に携わりました。その会社は女性を差別するようなことが無く、働きやすい環境でした。

入社して数年が経った頃、学生時代から社会に出て働いていたこともあり、少しリフレッシュしたいと思いました。そこで日本に留学することにしました。父が福岡県出身だったという縁で、福岡にある大学の国際文化学科で1年間学びました。ブラジルに帰国後は、日本語が堪能な者として同メーカー二輪部門の開発関連部署で新規プロジェクトに携わることになりました。その頃、駐在員として本社から赴任していた男性と出会いました。それが今の主人です。

2008年のゴールデンウィークに、主人の帰任がきっかけで日本に移住してきました。もしそのような出会いや出来事が無ければ、私はずっとブラジルにいたかもしれません。それは主人も同じで、彼の希望赴任先は実はドイツだったのです。にもかかわらず、ブラジルに赴任することになったわけですが、その異動がきっかけで主人は私と出会ったのですから、人生は何が起きるか本当に分かりませんよね(笑)

 

長い冬

私は、来日をきっかけに退社しました。夫婦が同じ会社で働くことに抵抗がありましたし、「夫婦と言えども、それぞれ自分の世界を持つべきだ」という考えを常に持っていたからです。そのためまずは日本に“輪”、つまり自分の居場所が欲しいと思ったのです。そこで考えました。「新天地で、私はどんな仕事をするべきか・・・」と。

自分を見つめ直し、たどり着いた答え – それは「自分には語学しかない」ということでした。しかも私は元来ラテン系なので、楽しくないと仕事に熱くなれないタイプ。そこで考えたのが、映画や海外ドラマ、音楽映像などの字幕翻訳でした。その勉強をするために、 日本映像翻訳アカデミー(JVTA)という学校に入学。

しかし、やがて壁にぶつかることに。「本当に、この仕事をやりたいのか?」と・・・。確かに映画は好きでしたが、字幕を作ることに情熱を注ぐことができるか、自信がありませんでした。もちろん学校の全課程を修了しましたが、その後のトライアル、つまり翻訳エージェントに登録するための試験には、何度挑戦しても受からなかったことも、悩みの一因だったと思います。

家に帰っては「何で受からないんだろう・・・」と愚痴ばかりこぼし、主人にはよく怒られました。「愚痴を言うくらいなら、頑張れ」と。鏡に映る私の顔すらも好きになれない日々。ある年の春、満開になった桜を見て、泣きました。「永遠に続くと思われる冬もいつかは必ず終わり、春が訪れるのと同じように、自分にも、こんなふうに花咲く時が来るのかな」と・・・

いつ明けるとも分からない暗闇の中で、私はあることに気づいたのです。

 

“筋書きのないドラマ”で開花

映画やドラマには必ず台本があり、それを訳すのが字幕翻訳者の仕事。一方でドキュメンタリーやスポーツ、バラエティ番組の海外ロケなどには一切台本が無いため、外国語を全て耳で拾えるほどの、通訳と同等レベルのリスニング力が、また、テレビ局などの現場ではさらに瞬発力や臨機応変さも求められます。どちらがやりやすいかは人それぞれですが、私は後者の方が自分に合っていると強く感じるようになりました。しかも私はポルトガル語、スペイン語、英語の3ヶ国語ができるという強みがあったのです。

私は再びトライアルに挑戦。今度はスクリプト(台本)無しの翻訳です。イギリスのロックバンドを追ったドキュメンタリー番組とイギリスのスポーツダイジェスト番組などの、それぞれディクテーション(外国語の音声を聞いて、それを一語一句書き起こすこと) 、字幕制作、およびボイスオーバー(吹き替え)翻訳でした。そこでやっと合格したのです。

同時期に学校で教鞭を取られていた、翻訳エージェントのディレクターから言われました。「スポーツと報道に不況は無い。だからぜひやってみては?」と。

世の関心は、2014年開催のブラジルW杯へと向かっていました 。毎回W杯の前年に開催され、W杯の前哨戦と呼ばれるコンフェデレーションズカップの2013年版はブラジルが舞台 。日本代表も参加していたため、NHKが特別番組を製作しました。そのうち、私はメキシコ代表とウルグアイ代表それぞれの監督のインタビューの書き起こしと翻訳を担当し、それをきっかけに他のスポーツ番組の仕事が入るようになりました。私が生まれ育ったブラジルというお国柄、ルールについて詳しくなくてもサッカーの試合はよく観ていたし、好きでした。だからそれらは、自分が本当に「楽しい!」と思える仕事だったのです。

さらに2016年には、同じくブラジルで開催されるリオオリンピック・パラリンピックが控えていました。私は実は、その何年も前の2009年、リオでのオリンピック開催が決まった瞬間を報じた中継番組の現場にJVTAさんから派遣され、ポルトガル語の通訳として仕事をしていました。その時私が心に決めたのは、「7年後のオリンピックに関わることができるように、今からしっかりと力を付けておこう」ということでした。

その思いで頑張った末に、大きなチャンスが思いがけない形で、予定より2年早く巡ってきました。それがブラジルW杯であり、ブラジルサッカー界の新星・ネイマール選手来日時の通訳業務でした。ネイマール選手の通訳については、不安が無かったわけではありません。でも私は「ぜひやらせてください!」と強く申し出ました。幸いにもサッカー関連の映像翻訳を多く手がけてきた経験が買われ、2014年7月、フジテレビ『バイキング』をはじめ、ネイマール選手が出演する番組の通訳という大役を獲得したのです。


ネイマール選手のCM撮影現場で通訳を務める中井さんの映像(2014年)*中井さん登場は0’50″ごろから。

 

チャンスは全ての人に訪れる

会社員だった頃は、まさか自分がサッカー界の世界的スーパースターたちと仕事をさせていただけるなんて、夢にも思っていませんでした。ネイマール選手との仕事のお話が来た時なんて「は?」って思いましたもの(笑)ですから、その仕事を獲得するために、長い間綿密な計画を練って、それに基づいたステップを踏んできたのではありません。特に大きな夢を持つことなく、“今”を懸命に生きてきた。ただそれだけです。

だから私は思います。「チャンスというものは、誰に対しても一度は必ず訪れるのだ」と。問題はその時に、自分がそのチャンスに食らいついていけるくらいの準備をしてきたかどうか。そしていざチャンスを手にした時に、自分のベストを尽くせるかどうか。それだけだと思います。

またこれまで通訳の仕事をしてきた中で思うのは、通訳は言語能力の高さだけが求められるのではないということ。場の空気を読んだり、通訳相手の人となりを把握したりすること、そして通訳相手の人たちの信頼を得ることも非常に大事だということですね。

通訳は、結局は“人”と“人”をつなぐ存在であり、それぞれの代弁者であるため、通訳者を信頼できなければ、人は通訳者に心を開きません。周りにいる現場のスタッフさんたちにも信頼されないと、良い仕事はできない。それを考えると、通訳技術よりも、むしろ人から信頼されることの方が、通訳者にとって大事なことかもしれませんね。

 

壁にぶつかったら 思い切って舵を切る発想も

そしてもうひとつ、大事なことがあります。

単語を右から左へと置き換えるだけなら、機械翻訳で十分です。でも真の通訳は、その人が一番伝えたいことをしっかり理解し簡潔に、でも分かりやすくまとめて訳すこと。

それは実は、私がかつて壁にぶつかった字幕翻訳に共通することだったのです。

字幕は、映像のセリフの長さに合わせて作ります。原文をそのまま翻訳するとなると、制限のある文字数をオーバーしてしまうので、各セリフの一番伝えたいことを的確に日本語に置き換えるわけです。

字幕翻訳で学習した「原文を的確な日本語にまとめて伝える」という作業は、今、通訳としての仕事にそのまま活かされています。ですから私にとって、映像翻訳の学校に通ったのは決して無駄ではなく、それどころか、通訳の仕事がメインとなった現在、その経験が他の通訳者さんたちとの1つの差別化にもつながっているとつくづく感じるのです。

変わらないことを良しとする価値観はもちろん大事ですが、私は時代や環境によって、自分の進路などを変えることも大事ではないかと思っています。映画やドラマなど台本がすでにあるジャンルでの字幕翻訳には向いていないと判断し、筋書きのないスポーツ分野の翻訳に方向転換。その後、通訳の仕事を思い切って受け、そこで大きなチャンスを掴むことができました。

振り返れば、私はこれまで人生のあらゆる場面で学びの場に身を置いてきました。メーカーの現場で、以前から興味があったファッションマーケティングのMBAで、同じく関心のあったイメージコンサルタントの資格取得のためのスクールで、そして最近では、JVTAが運営する“国際コミュニケーションアーツ学院”(GCAI)という学校で、海外に向けたPRスキルを学びました。これらは全て、通訳以外に私が関心を持っている異文化コミュニケーション促進や女性のエンパワーメントなどの分野に仕事を広げていく時に、きっと活きるでしょう。

この記事をお読みの皆さん – もし壁にぶつかったなら、“進むべき道を変える”ことに躊躇しないでください。方向を変えたとしても、皆さんが学ぶために行った投資は、決して無駄になることはありません。長く暗いトンネルに入ってしまったら、思い切って舵を切ることも考えてください。そして“自分にしかできないこと”を一生懸命考えてみてください。その末に春を迎えられたなら、長かった冬の時代の苦しみも、きっと受け入れることができると思います。

 

中井さんにとって、東京って何ですか?

今の私にとって、サンパウロよりも“Home”ですね。

人生の大半を過ごしてきたサンパウロは、家族がいる大事な場所です。でももし自分に夢があるなら、それを叶えられるのは東京で、と思っています。なぜなら東京に来てから私の人生は開けたのですから。

「やろうと思えば何だってできる」- 私にそう思わせてくれた街、それが東京なのです。

 

中井さん関連リンク

インタビュー@JVTA:www.jvta.net/tyo/nakai-milly-san/
インタビュー@GCAI:gcai.jp/appearance/intv-nakaisan

 

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